この本は, 私が学生時代, Marx, Einstein, Wittgensteinの著作に接して抱いた感慨が出発点です。それは『ユダヤ人は哲学においても科学においてもなぜ断然革命的であり, 天才的であろうか』という驚嘆です。その後の半世紀に及ぶこの問題への関心と研究が基礎になっています。しかし執筆の直接の動機になったのは, 私が5年前(2006年)東京大学で卒業生から依頼されて行った将来予測講演「米国 ユダヤ人 キリスト教」です。なぜこんな講演を頼まれたかというと, 将来予測に関しては少し実績があるからせす。
私の将来予測の実績
私は過去に2回, 世界歴史の将来予測に成功しました。第1回は私の教授就任講演で, あと10数年でソ連が崩壊すると予測したこと, 第2回はその10年後の教授退官講演(1993年)で『中国がGDPで日本を越える』と正確に予測したことです。二つの件を10年, 20年前に正確に予測したことは, 相当な話題になるはずの事ですが, 実際に予測が実現した時は, 20年前の予測は何の話題にもなりませんでした。話題になったのは, それぞれの予測をした時です。1980年の時点で, ソ連という大国が崩壊するなど, 想像できた人はありませんでした。また中国の予測を行った1993年の時点では, 中国は急激な成長で起こった混乱と犯罪のため, あと2〜3年で崩壊するのではないかと不安がられた国でした。その時点で, 誰も考えない予測を行ったので話題になったのでした。
しかし私は, 当たったこと自体が評価に値するとは思いません。多勢の人が「当てずっぽう」でいろんな予測をすれば, 結果的にはピタリ当たった人が出て来ても, なんらおかしくないからです。私が評価して欲しいのは私の予測に当てずっぽうの要素がなく, 根拠に基づく確信に満ちた予測だった点です。でもこれは専門学者の「理論的確信」とは違います。 私のはEpisodeという形で「頭の中に蓄えられた知識」を20年, 30年にわたって絶えず考え抜き, 一つにまとめ上げた「心の中の確信」だからです。それから出る予測は, それ以外にはあり得ない予測だったのです。
将来予測は 現在を生きるため
もう一点「当たった」ことだけを評価に値しないとする理由は, 長期予想自体にはそれほどの実用的価値がないからです。予測の一番の使い道は投資でしょうが, それは短期ほど対象が局限されるほど価値があります。明日, K社の株は10%値上がりするという予測はすごい価値ですが, 20年後, 中国のGDPは10倍になるといってもそれは投資には役立ちません。それでも人はなぜ, 大きな問題の長期予測に関心を持つのか, 少なくとも私は関心をもつのか, それは意味のある生き方をしたいからだと思います。明日の天気予報を見て雨具の用意をし, 長期予報を見て旅行計画を変えるように, 世界歴史の予測を見て, それに合う合理的な生き方Planをかんがえるのも当然な生き方ですが, 私のは違います。
私はその結果を利用しようと思って将来予測をしているのではありません。将来の生活のための予測をするために, 現在いろいろな経験をして, そのEpisodeを頭の中に詰め込んでいるのではありません。逆です。現在を生きるために, ということは結果としてのEpisodeを作るために絶えず将来を予測しているのです。これは, 残留孤児同様の満州での少年時代から始まります。情勢を見て受身の対処という生き方だったら, とっくに消されていたでしょう。私にとって生活とは, 希望し, 行動し, 裏切られても又取り組む, ものでした。この積極的取り組みには, たえざる将来予測が必要で, それは生きることと一体でした。
歴史は短く, 人生は長い
もう一つ言いたいことがあります。私の予測は数年間のDeskworkではなく, 数十年の生きて来た経験だということです。それが成功したことで, 私は, 現代という時代を特長づける大事な真理に気付きました。それは「歴史は短く, 人生は長い」です。一番端的な例は私が, 共産中国について, その兵隊が鍋を借りにきた時代から, GDPで世界一になった時代までを, 経験していることです。どの時代についても, 情報として知っているだけでなく, 深く関わった個人体験をEpisodeとして持っています。それは敗戦後中国にいたから経験できたことですが, そういう人は他に何十万人いたと思いますが, 文化大革命と毛沢東を, 中国の公式の場で堂々と批判できた人は, 一人もいません。私ができたのは, いずれも些細なことがきっかけになっています。第一は, 鍋を返しに来たPeng Dehuai (彭徳懐) 将軍の兵隊に接し, 中国人に希望を持ったことです。第二は「毛沢東哲学」と喧伝された本を読んで, おかしいと感じ, 毛沢東批判派になったことです。次には毛沢東がPeng Dehuaiを「わな」にかけて粛清したことを知り, 毛沢東に怒りを感じ, 一生闘ってやる気になったことです。
なぜ将来予測は 学問ではないのか
将来を予言することは, ふつう宗教家や占い師がよくやる仕事であって, 知的な仕事, 学問的な仕事とは考えられていないからです。でもよく考えるとこれは何かおかしいことに気付きます。そもそも人間が自然を観察し考える気になったのは, つまり研究や学問という仕事をする気になったのは, 将来を予測する必要からです。その研究や学問を進めるうちに, 将来予測は, ほとんどの学問の目的ではなくなったのです。この不思議を明らかにするには「将来予測」というものについて, 知的に考えてみる必要がありそうです。
学問とは, 頭の中で考えられたことを, 客観的な形で表現する仕事と考えられます。それならば, 将来予測は, まさに学問の議論の中心であるはずなのに, そうはなっていません。この理由を考えて見る必要がありそうです。核心は, 知識が頭の中にあるか, 外にあるかにあります。職人, 技術者, 実業家など実際に「もの」を計画し, 作っている人は, 「頭の中の知識」でそれを行っていますが, 「頭の中のこと」は, 特には意識されていません。知識が正しいかどうかは, Productである「もの」が役にたつかどうかで判定し, それ以上のことはしません。
これに対し, 知識を実用するのではなく, 知識自体を研究して生活している「学者」は, 態度がまるで違います。学者は, 「頭の中の知識」を頭の外に取り出すことで「理論として客観化」し, その上で, その正しさを学問的に証明しようとします。そこで近年一番強力とされている方法は, いわゆる「論理実証主義」です。これは証明したい理論を仮説と見なして, そこから論理的に誘導される予測をいろいろ導き, それらが実際に合っているかどうかを検証する方法です。この方法は物理学, 化学では大成功し, 今や自然科学の王道です。ところが歴史科学では、 今までの歴史的事実経過を基礎に, 理論を作りますが, それから導かれる予測は, すべて将来のことなので, 実証に時間がかかりすぎ, 理論の検証の意味がないからです。「ソ連崩壊」のような大事件に接した時, それを20-30年前に予測した理論があっても, それを評価する動きはありませんでした。実証された時, その理論の命は終わるからです。
実証すべきは理論か人か
論理実証主義という科学の常道から見ると, 将来予測をする理論が実証されることは, 原理的にはありえません。しかし実証のない理論に基づく将来予測は, 宗教家の予言と同じことで, 知的とは言えません。ということは知的な将来予測はあり得ないことになりますが, これは将来予測こそが, 知的追求の原点であったことに照らすと納得しがたいことです。この深刻なDilemma (ジレンマ) を解く「かぎ」は学者の間で絶対化されている「理論の実証」の意味を問い直すことにあります。
「理論」とは, 「頭の中の知識の構造」を外に取り出したものですが, これは「頭の中」全部ではなく, 問題に関係する「一部」だけを切り出したものです。実証とはこの「部分」だけの正しさを検証する「厳密」な方法ですが, 部分性と厳密性のために, 実証の可能性は大きく制限されてしまいます。この点を反省して, 考えられるもう一つの方法は, 「理論」の「妥当性」ではなく, 「頭の中の知識の構造」つまり「考え方」そのものの「妥当性」を検証する方法です。この場合は, 問題そのものではなく, 関連する問題も, 同じ考え方の中に含まれますので, 実証できる可能性が, ずっと広がります。
見方を変えていうと, これは「理論」の検証から理論を作った「考え」の検証に移ることです。「考え」はPersonal(属人的)なものであるのに対し, 「理論」はPersonal なものをしりぞけ, 客観化しようとする努力ですが, ここで述べる考え方は, 「考え」を無理に客観化する努力をやめ, Personalな頭の中の知識構造の「信頼性」を検証しようとするものです。このSwitchの転換は学者には驚きかもしれませんが, 実務で生きている人々には当然のことです。こういう人達は, 人のいう予測が信ずるに足るかどうか決めるのに, 理論を検討することはしません。単純にその人の過去のさまざまな実績から判断して, 信頼できるかどうか決めます。
筆者の場合は さきに述べたとおり,
が判断材料になるはずです・
「近景 遠景 拡大図」の方法
「頭の中の知識の構造」の妥当性を検証するもう一つの方法は, 「頭の中の知識」が作られる方法の妥当性を検証することです。私の場合、自分で考えつき、大きな研究で駆使する方法は, 「近景 遠景 拡大図」の方法です。これは研究対象を全体として捉えるための「遠景図の方法」と, 現象の裏にある実態を発見するための「顕微鏡的拡大図の方法」を, 互いに強め合う形で利用する方法です。このうち拡大図は, 情報を集めデータを分析する努力を積み重ねれば, 必ず見えてくるものですが, 遠景図はそうはいきません。遠景図は, 近景図を沢山集めて, それを遠くから見ればよいのではありません。遠景図を作るには,全体のどこにもあらわれて, 各箇所で決定的な役割を果たすKey Role Agent (主役) を見つけて, その活動をくまなく調べることで, 全体をつかむ必要があります。これを見つけることが理論物理の仕事です。自然界で見つかった最強のKey Role Agent が「Energy」です。
現代および将来の米国の問題を考える場合, 政治, 経済, 軍事, マスコミ(Journalism, Entertainment )のどの分野においても, 実質的にそれを動かし, 主役の役割を果たしているのは, ユダヤ人(Jewish)です。そこで本書では, JewishをKey Role Agentと見て, 米国の国家と社会の遠景を, 描いてみました。つまり, 現代米国社会におけるJewishの活動を, くまなく追跡することにより, 一見つながりのないように見える分野の隠れたつながりを明らかにし, 全体像=遠景図にしようと試みたのです。その一側面である「情報技術革命」においては、筆者は、理論物理的考察から 「電脳」をKey Role
Agent としました。