Thinkmap
独創的に生きるには、生きるとは
本稿は2010年1月29日、理化学研究所の研究員総会で「独創性の研究」と題しておこなった講演をまとめたものです。講演は、若い研究者を対象に「独創的研究をするには」必要な準備としての精神的Principle と「独創的研究をすると」 何を覚悟しなければならないか、私の経験から Episode を語ったものです。、その時の結論は、「独創的に研究する」とは 「独創的に生きる」ことだ、ということなので、本稿の表題はそのようにしました。また講演では、「するには」と「すると」は入り混じっていましたが、Thinkmap では、「するには」を Route Map, 「すると」を Episode として分離しました。
目次
Route Map 独創的に生きるには
l IntroductionⅠ 独創の核心は「二人仕事」と「純粋さ」
l IntroductionⅡ 「頭の外の知識」と「頭の中の知識」
l Action PrincipleⅠ 言葉に足をすくわれないこと
l Action PrincipleⅡ
社会常識でなく社会真理に従え
l 「独創的に生きる」ための心構え 3項目
一生懸命でなく真剣に 目前仕事は80%の努力で: 一番でなく二番でよい
EpisodeⅠ 最初の成功の後に何がおこったか
l 最初の成功の前と後、なぜ話を分けるのか
l 独創的仕事の最初の成功 「化学プロセス工学」
l 独創的な研究課題 「瀬戸内海の汚染」
l 独創的活動 メーカーと対決して「排ガス規制」実現
l 袋叩き、反論「裁かれる自動車」、東大追放、逆転させた人
l 独創的教育 「考える遺伝子工学」
l 定年後しかできない独創研究 「水俣病の科学」
EpisodeⅡ
最初の成功までの世界 可能性と立消えの海
l 成功前の世界とその記述
l 矢木教授との最初の出会い
l 生涯最高に勉強の1年間 ソ連物理 理論化学工学の構想
l 突然の暗転 開発研究の命令 爆発事故
l 極秘でやめる準備 不安と不毛の1年 最低の修士論文
l なぜ期待を裏切られたか 指導者の複雑心理
l 暗夜のあとの新設研究所 偽善なしの天国的人間関係
l
武谷Schoolで 日本人の研究の弱点を研究
l
東大から「戻れ」 「プロセス工学」研究室をまかされる
l
「プロセス工学」も立ち消えの危機、ばん回には東欧旅行
l
私という人間の革命になった 東欧旅行
Route
Map 独創的に生きるには
【論文と話のちがい】
以下、私は「どうしたら独創的になれるのか」というThemaについて話します。私はこのテーマについて、二つの面から研究し、すでに論文を書いています。一つは「天才はなぜ独創的なのか」というテーマで、これについては南部陽一郎を対象にして本格的な研究をし、南部陽一郎の独創性の秘密を探るという3篇の論文にまとめました。もう一つは「平凡人はどうしたら独創的研究ができるか」というThemaです。私自身の研究生活の裏面を容赦なく暴きだして考察し、どうしたら独創的研究ができるかという論文にまとめてあります。このように私は, 独創性についてはすでに言うべきことは言っているのに、今日また「同じThemaで話をするのはなぜか」という疑問にお答えしたいと思います。
まず、最初にはっきり否定しておきたいのは、私は論文の内容を要領よく紹介するために話をするのではないことです。つまり論文を読むのは面倒だから話だけ聞いて要点をつかもうという人のために話をする気はないということです。私は論文を読んでくれて、興味をもって顔を身に来た人のために話します。論文を読んでその内容をつかんでいる人のためにさらに話をするのは、私の場合、論文と話は根本的に違うところがあるからです。論文も話も知識と考え方を伝えるものですが、論文は、「頭の外に置かれた」「つじつまの合った」「知識と考え方」であるのに対し、話の方は、論文を書く前に「私の頭の中にある」「知識と考え方」を伝えようとするものだからです。「頭の外の世界」と「頭の中の世界」の違いです。
論文の世界の特長は、問題が整理され、要素に分割され、論証されていることです。これは言葉による表現の宿命です。これに対し、言葉によって表現する前の「頭の中の知識」は要素に分割されてはいません。例えば「ある人の肌」を言葉で表現するにはその色、桑らかさ、温かみ、においと分けて記述しますが、頭の中で覚えているのは」「その人の肌そのもの」です。では頭の中の「そのもの」を表現するのに言葉しかないか、と言うとそうではありません。人の肌の表現ならルノワールの絵の方が雄弁でしょう。また言葉ですべて表現できる訳ではありません。においを表現できる言葉はありません。
それにもかかわらず、知識や考え方の表現法としては論文の方法が唯一の正しい方法のように考えられていますが、これは表現の実用的目的について少し考えてみると間違いであることに気付きます。表現の実用的目的は、相手が求めている知識と考え方を相手が納得する形で伝えることでしょう。その時どんな表現が最適かは相手の頭の中の知識と考え方によって変わってくるはずです。論文はどんな予測知識も経験も前提にしない説明の Styleです。極端にいえば、魚に直立歩行を説明するようなものです。一方、知識伝達の実用的目的からすると、説明を理解するだけでは不十分で、それを使いこなす必要があります。このような高度の伝達目的のためには、受け手の頭の中の知識を十分に利用する必要があります。GolfのSwingの野球選手への説前は、素人初心者への説明とはまるで違っていて当然です。これと関係あることですが、話が論文と違う点がもう一つあります。それは論文が著者の一方向的な語りMonologueであるのに対し、話は聴衆の反応を見て、それに応えながら行う二方向の語りDialogueであることです。
私が私の論文をすでに読んでいる人々に向かって、同じThemaでお話する理由は,
「頭の中」の知識と考え方を聴衆との「Dialogue」の形で伝えたかったからです。「頭の中」とDialogueにこれほどこだわるのは、この二つが今日の話の主題である独創性に不可欠な要素だからです。Dialogueを実現するため, 今日はまず、聴衆の方々から質問を受け、これによって聴衆の関心とLevelを知り、これを受けて私が話しをし、残りの30分を聴衆とのDiscussionに当てる予定です。
IntroductionⅠ 独創の核心は「二人仕事」と「純粋さ」
話の核心に入る前に、私が事前に指定、配信した論文について、その要点を指摘することにします。まず、凡人が独創的になるには「どうしたらよいか」を論じた論文では、独創的な仕事をRock Climbingにたとえ、それに成功するにはWhymanとHowmanというように性格の異なる二人がRouterとClimberになって役割を分担して協力することが必要なことを述べました。
つぎに、「天才」南部の独創性をさぐった論文では、最初に書いた論文がノーベル賞に相当するほどの俊才であったこと、その秘密は彼は「頭の中」に「教科書」の物理の世界とはまったく違う物理の世界を持っていたらしいことを明らかにしました。そして彼の性格の特長は上の人や周りの人の評価をまったく気にしないほど自負心が強いことを明らかにしました。最初の仕事の後8年間、自分で選んだトンネルに入りっぱなしでした。研究上一番大事な時に、日本国籍を捨てる決断をせまられましたが、この時の決断は純粋なもので、日本での評判を気にしていません。彼を特長づけるのは、自負心に支えられた精神態度の純粋さです。このような純粋さでは、人生の敗残者になるのが普通ですが、南部のばあいは、純粋に彼の天才を認めて、長いトンネルの間、彼を支えた上司が米国にいました。純粋さが純粋な支持を呼び寄せたのです。
IntroductionⅡ 「頭の外の知識」と「頭の中の知識」
事前配信資料には、これらの論文の他に、Thinkmapという一種の自作百科事典が入っています。これは一見独創性の議論に無関係に見えますが、実はそうでなく今日のお話の土台になる考え方を示したものです。要点は明確です。まず第一に「頭の中の知識」と「頭の外の知識」は違う、頭の外の知識は情報だが、頭の中の知識は情報のように断片化されてなくて、現実の世界のように一つの連続した構造になっているということです。次にそれならこの頭の中の知識の構造をどのようにして調べ、それを人に伝えることが出来るかという難問ですが、これは現実世界でいくつものTownを巡り、目指す宝物があるSiteを訪ね歩く探検旅行に似ています。そこでまず必要なのは、いくつものTownの位置とそれをつなぐRout Mapです。さらにそれぞれのTown内の道とSiteを示したTown Mapです。
これを頭の中の世界と比べてみますと、求める知識をふくむ知識のかたまりが、Siteに相当します。知識のかたまりといっても頭の中では 断片的な情報の束ではありません。それでは頭の中に憶えていられないはずです。頭の中では、関連する知識は核となる知識に意味としてつながっていて、順々に引き出せるようになっています。その核となる知識は言葉や概念ではなく、忘れられない光景とかEpisodeです。Episodeとは印象に焼き付く意味を持った一まとまりの光景あるいは事件のことです。頭の中の知識の世界ではSiteに相当するのはEpisodeだというのが私の主張です。
頭の中の世界と頭の外の世界で大きく違うことが二つあります。一つは頭の外の世界では「知識」と「考え」とは切り離されたものですが、頭の中では、知識と考えは密接につながっていて別れてはいません。また頭の外の世界ではある考え方が正しいことを確認するには、論証という操作が必要で、これは、「正しいと仮定されたこと」の上に組み立てられる「直線的な論理操作」です。これに対し、頭の中では何かが正しいということは決定的ではなく、いろんなものが互いにもたれ合って正しさを確信させています。それが本当に正しいかどうかを決められるのは実験と行動だけです。
「頭の中」の知識と「頭の外」の知識の関係こそが独創性を考えるKey Point と思います。それはこのことが南部の論文と研究過程を詳しく研究し、南部の頭の中で知識と考え方がどのような具合になっているかを推理した結論だからです。南部の「頭の中にある物理の世界」は同じ物理屋である私にも推理できましたので、頭の中の物理の世界の構造を知識一般の世界の構造に広げたものです。
Action
PrincipleⅠ 言葉に足をすくわれない
私が論文とは別に話を重視する理由は、大事なことでありながら論文では伝えられないことがあるからです。「どうしたら独創的になれるか」は、私自身が絶えず模索し続けている問題で、その結果として、日常たえず意識し守っている一連の Action Principle (行動原則) があります。これら行動原則こそが、独創的になろうとする人々に直接に役に立つはずのものです。実際にこれは大学の研究室で、独創的な研究者を育てるのに、非常に効果がありました。しかしこの「行動原理」のようなものは論文には出来ませんので、ここで話として紹介します。
私の研究室の Action Principle (行動指導原則) はきわめて具体的のものですが、その基本になっている認識は二つあります。第一は「言葉にまどわされるな、言葉の浮石に足をとられるな」です。第二は「社会常識を盲信するな。社会の現実に目を見開け」です。驚くほどの多くの人がこの認識を欠いています。認識を欠いたまま行動に出るので独創的なことができなくなっています。言葉の世界は他人が作った頭の外の知識の世界です。それに従っているなら、社会的に議論として通用する考えを作り上げ主張することはできます。しかし、実験上あるいは経験上は確かだが、言葉として論証できないような独創的な考えを作り上げることはできません。それはその時点では、「言葉が不十分」だからです。言葉が正しい認識に不十分なのは、二つの場合があります。一つは、言葉がない場合です。例えば色に関心のある人は、百色ぐらい区別できますが、色を表す言葉は10個ぐらいしかありません。臭いを表す言葉は「いい香り」「いやな臭い」の二つしかありません。嬉しい気持ちも非常にさまざまですが、「嬉しい」以外に言葉はありません。
言葉でさらに困るのは言葉はあっても「無いもの」が多いことです。例えば無限大は、言葉があり、記号もありますが、それは数学的には存在しないものです。ある意味でそれと同じことですが「幸福」とは、言葉があるだけでないものです。「不幸」は確かにあります。したがって不幸を避ける方法もいろいろ考えられます。しかし「幸福になる」ことを考えることは、意味がありません。「幸福」は無いものだからです。この無いものを、あるように思って追いかければ、どこかに大きな無理が生じます。
【言葉にまどわされないための4項目】
研究者、特に若い研究者は、研究の日常で、絶えず議論して自分を育てていく必要があります。研究室と称して研究者がグループを作る主な目的は、このような議論にあるのでしょう。したがって研究に言葉は欠かせないのですが、言葉は間違った考えに引き込む可能性も強く持っています。そこで言葉を使いながら言葉に足を取られないことが、独創的研究を実現するための鍵です。そう考えて私は議論の時、守るべきだと思っている原則をまとめて私の研究室の憲章にしました。それを以下に示します。
1.
報告は 「要するに」というな つねに具体的に話せ
2.
説明は つじつまの合った話にするな 合理的説明できないと言え
(もっともらしい説明はかならずウソ)
3.議論は 意見論争はするな
証拠で決着できる場合に限れ
(意見の違いは論争では決着しない) (強引な主張はやらせて失敗させる)
4.研究は 机の前で考え込むな だめでモトモト やってみる
(やれば失敗する 失敗すれば考える)
読めばわかる通りの簡単明瞭なことですが、なぜこれが独創性を育てるのに大事なのかの説明は後にして少し補足説明をします。
「要するにというな」は、実際上もっとも重要な原則で「要するに」と言えば、罰金を取っていました。イワシとメダカについて行った研究をもとに「要するに魚は」という議論をしない、ということです。具体なものだけが発見の機会をあたえるのであって、不用意な一般化抽象化が、独創的発見への貴重な芽をのがしてしまうと思っているからです。
「もっともらしい説明はするな、わからないと言え」も同じ趣旨です。もっともらしい説明は人を安心させますが、詳しくは事実と合わないだけでなく、せっかく出会った発見の芽を見過ごすことになります。
「意見論争をするな」も大事な原則です。意見を言うことは大事で、それに反論することも大事です。しかしそれ以上、法廷弁護士のように「議論で相手を打ち負かそう」とするのは止めなさい、ということです。科学上の議論で、言葉で決着がつくものはありません。決着をつけられるのは実験データか計算結果です。ですから意見論争になったら、どちらかが実験結果か計算結果を持って来るまで、論争を中止するのが正しいのです。これに関連して注意したいのは、「話せばわかる」ということが、社会道徳の基本のように信じられていますが、迷信だということです。確かに、知らなかった事実があれば、話せばわかるはずですが、多くの場合そう単純ではなく、意見の違いが根本にあるので、話せば話すほど対立は深刻化するのが普通です。
言葉によって独創が邪魔されないための最後の決め手は「机の前で考えない」ということです。机の前で考えるとは、実験、調査、計算という具体的な作業と無関係に頭の中だけだ「右に行くべきか、左に行くべきか」思い悩むことです。一番いけないのは「行動に出るべきか、否か」を悩むことです。なぜいけないかというと、「悩む考え」をつきつめると「やる」という結論にはならず「やめとく」ことになるからです。言葉による論理的思考は、否定的想像の方に強いからです。情報もないことを、言葉と理論で想像して、こちらが確実に有利というような結論がでるはずはありません。ダメで モトモト、やって見るしかない、というのが私の原則です。このように「考える」ことは大事であるにしても、不用意に考え出すと、言葉の持つ弱点に引き込まれてしまう恐れがあります。それを避けるには、考えるという行為を実験、調査、計算という「実行行為」と結びつけて、それと一緒に行うことを条件にすることだと思います。それが「机の前で考えるな」の意味です。
Action
PrincipleⅡ 社会常識でなく社会真理に従う
独創的に研究したい人は多いのに自分は独創的だと自負できるほどの人はほとんどいません。その原因は人々が独創性についての迷信に惑わされ、考え違いをしているためと思います。一番の迷信は独創性が周囲から、社会から高く評価されるものと思っていることです。確かに独創的成果で成功した人は高く評価されます。しかしそれは成功したから評価されているのであって、成功するまでは評価されていません。独創的だが成功しなかった人は私の知る限り数多くいますが、評価されなかっただけでなく排斥され途中で消えてしまっています。ですから周囲や上司から「独創的だ」といわれた時は, よほど用心して聞かなければなりません。「独走的だ」という意味だからです。自分の上司や周囲の評価を気にするなら独創性はマイナスであるばかりでなく将来の地位も危なくします。
でも志を立てて研究者になった以上、周囲からの評価は期待せず、自分の考えで何か成し遂げようと思っている人はいます。研究が好きで研究者になり、自己実現の場を、地位ではなく仕事に置く人ならそう考えるでしょう。私の以下の話はそのような人に向けたものです。
私の話の主要部分は、私がいくつかの独創的な仕事ができたEpisodeです。Episodeですから、聞けば擬似体験が出来ます。これによって独創を実現する上で出会う困難や、それを乗り越える術について、頭の中で準備をすることができるようになるでしょう。これらのEpisodeをよく理解してもらうためにはまず、Route Map (Episode を訪ね歩くための Orientation) を提示します。このようなRoute Mapに第一に大事なことは、人が迷い込みやすい間違ったRouteを指摘することでしょう。それは社会常識です。独創性と研究に関しては、科学に夢をもつ若い人が確信をもって疑わない社会常識とは、次のようなものでしょう。
l 人生は短く科学は長い
l 研究は人類の未来のため
l 一生懸命やれば、結果はついて来る
でもこれを、30年40年、Business (ビジネス)の研究現場で苦闘してきて,いまは組織を離れて人生の夕暮の中にいる研究者、技術者の先輩に見せたら、間違いなく「これは現実ではない」と言うでしょう。私も同意見です。これは、社会常識ではあっても、社会現実ではありません。でも現実の認識を間違ったら、独創に成功するはずはありません。では現実はどうなのか。私はこれを自分の経験のEpisode で語ろうと思います。でもEpisode の森に入る前に、長い Route (ルート)の意味を見失わないように、社会常識と社会現実との違いを、いくつかの具体例で示しておくのが、良いと思います。具体例として、上の三つの社会常識をえらんで、私が確信する社会現実を、対置するとつぎのようになります。
l 仕事は短く人生は長い
l 研究はビジネスの手段 組織生き残りの手段
l 仕事は一生懸命ではダメ 真剣にやれ
常識の間違いについて少し解説します。まず「人生は短く科学は長い」についていうと、科学そのものは長いかも知れませんが、研究者の仕事についていうと、人生より長い仕事なんてありません。それは会社で働いていれば誰でも気付くことです。どんな開発課題も10年で終わること、自分の部署も役割も10年でまったく変わること、会社そのものでさえ30年以上保つとは期待できないことは、40歳以上の人なら誰もが気付いているところです。しかし常識が頭の底に残っていると、事態を直視しなくなります。人が現役で働いている40年の間に、3回も4回も仕事を根本的に変えなくてはならなくなっているので、それへの準備とか対策が必要なはずです。それは別の専門分野の勉強とか、結婚相手と二人で稼ぎ、一人が職を離れても、生活を支えていける計画とかですが、常識にとらわれると、見通しが安易になり、やらなければならないことを避けます。その結果、研究者、技術者は、年を取ればとるほど、みじめになります。
次は「研究は人類社会の未来のため」という常識です。研究者は、社会からお金をもらって初めて生活ができ、研究ができるのですから、社会に向かっては、「研究は人類社会のため」というメッセージを発し続ける必要がありますが、真実には目をつぶってはならないし、何より自分自身をだましてはならないと思います。真実は企業が行う研究はビジネスの手段にすぎません。そして世界規模のビジネスとは本物の戦争がない現在、相手の絶滅を最終目的にした生存戦争にほかなりません。本来は違うはずだった「大学の研究」「公立機関の研究」もいまや、少しでも有望なものは、企業のビジネス研究に組み込まれ、さらに有望なものは、国益を代表する世界戦争に巻き込まれています。これが真実であり現実です。それなのに、もし研究者が自分の研究は人類の未来のためであり、現在の研究に成功しさえすれば、将来の地位と栄誉は保障されていると考えるなら、裏切られるでしよう。
それに加えて、「成功の鍵は99%の努力の汗と1%の独創性だ」と信じるなら、さらに裏切られるでしよう。独創性には明らかに二つの意味があります。第一は自分の意思で自分にしか出来ないことをしたい、「そういう生き方をしたい」という「人格的独創性」つまり生き方の独創性です。もう一つは、ノーベル賞委員会でOriginalと認められるような「技術的独創性」です。これは一見別のものですが、容易に想像がつく通り、大きな技術的独創は、必ず「人格的独創人」によってなされています。独創的発見は非常に困難な仕事なので、人格的独創人でないと、それを乗り越えられないからでしょう。つまり独創性とは本質的に、人格的創造性であることは明らかです。しかし、研究者の多くはこの二つを切り離そうとします。それは、技術的独創性は誉められるけれど、人格的独創性は周囲から嫌われることが、よくわかっているからです。
だが研究者を取り巻く環境が厳しくなると、曖昧な対処ではすまなくなります。人格的独創性とは生き方の独創性のことですから、「独創的な生き方」を選ぶのか、それをあきらめるかの選択がせまられます。以下は「独創的な生き方」を選ぶ人々へのMessageです。
「独創的に生きる」ための心構え 3項目
私は独創的に生きることは、どの瞬間に落ちる危険に出会うかわからないという意味で、Rock Climbing に似ていると感じています。危険ばかりでなく、幸運な条件との出会いがあり、それが成功の決定的要因になるのも似ています。幸運にせよ、危険にせよ、それが訪れるのは突然で、それにどう対処できるかで、運命は決まってしまいます。対処の判断は一瞬のように見えますが、それは人によってちがい、それが運命の違いにつながります。違う理由は、一瞬の判断が、実は日常的な態度と行動の結果だからです。出会う危険も幸運も日常的な態度と行動によって変わります。独創的に生きようと決意している私は、そうゆう意味で、自分の日常の行動態度を律する Action Principle (心構え)を持っています。私はそれを、自分の弟子たちにいつも強調していました。それは次の3か条です。
l 一生懸命はダメ 真剣にやれ
l 目前の課題解決は80%の力で
l 一番にこだわるな 二番でよい
【一生懸命ではダメ】
人の指示や真似ではなく自分の責任で何かを成し遂げようとする人に必要な「心構え」は「一生懸命やればよい」という気持ちを捨てて「真剣」になることです。二つの違いがわかりにくい人には、極めて危険なRock Climbingを思い出してもらえばよいと思います。人は自分の意思で危険なことを自己責任でやる時、人は「真剣」になるのであって「一生懸命」ではありません。「一生懸命」とは高度の判断は要しない仕事を怠けずに遂行してもらうために、組織の上の人が期待する態度です。実際に人は額に汗を流し、体力の限りをつくして頑張っている時、頭は働いていません。
【目前課題の解決は80% の力で】
私は、日本人の独創性が育たない原因は、組織の上の人が強調する「一生懸命」信仰の他に「頑張れ」信仰にあると見ています。二つは似ていますが、一生懸命は体力努力を強調しているのに対し、「頑張れ」は能力以上のことを要求する言葉です。「120%の力を出せ」「乾いたタオルをさらにしぼれ」がその典型です。しかし一つの仕事を一生続けられる時代は遠く去った今、この「頑張り信仰」は考え直さなければなりません。なぜなら現在は、生涯の間に、三つも四つものまったく別な仕事に挑戦しなければならならず、しかも一つの仕事がなくなった後、次の仕事を見つけるのもつかむのも、自分の責任、そのために十分な準備をするのも自分の責任、だからです。その状況下で自分の独創を、ただ一回のGamble(ギャンブル)のように考えるなら別ですが、独創を、「生涯を通じての独創的な仕事のつながり」と考えるなら、「120%頑張れ」主義について考え方が変って来る筈です。それはつながりを考えていない態度だからです。
これは結局自分の努力の何%を現在の課題に注ぎ、何%を将来のために注ぐか、という「最適努力配分」の問題です。私の発見した答えは次です
l 現在の課題達成のための努力配分は80%まで。
l 残りは将来のための準備に当てる。
私はこの答えを、満州での難民少年の時代に気付き実行していました。中国人の暴動で廃墟となった街の中で、乞食に近い生活をしながらも、本と辞書を拾ってきて英語の勉強をしてました。学生時代もその心構えを通しました。大学の入学試験の時も、前週まで毎晩、通訳養成学校に通っていました。落ちたら米軍のHotelで働く準備でした。
ここで努力配分とは、単純には時間配分です。食事、睡眠、通勤を除いた知的活動時間の配分です。また現在の課題とは、自分が達成を求められている問題です。研究員なら上司から指示された課題です。学生なら希望大学への合格です。そして、努力配分の最適化とは、現在価値と将来価値の総和を考えた判断です。つまり80%が最適解であるとは、現在価値と将来価値の和が、80% の時、最大になるということです。もし80%を90%に増やすと、将来の分は20%から10%と半分に減ります。現在の課題にとってのプラスが、その損失をCoverするほど大きければよいのですが、収穫逓減の法則がありますから、80%から90% に増やしたことの効果は、数% で、総合的に大きなマイナスになります。したがって総合的に考えれば、80%以上の努力集中は勧められないという結論になります。
将来のためにすることも、はっきり考えておく必要があります。考えてないから軽視される面があるからです。将来のための準備の第一は、新しい仕事をプロとして行うために必要な学位とか資格の取得でしょう。外国語の習熟もその一つです。「趣味」も大事な分野です。日本語では収入に結びつくのを仕事、結びつかないのを趣味としますが、英語ではそれと関係なく知的仕事はすべてWorkです。Business戦争の現代は、収入にならない大事なWorkが非常に増えています。私の経験では、それこそが生き甲斐になるものです。
さらに大事な問題でありながら「120%論者」の上司が、意図的に軽視するのが「家庭」の問題です。まだ家庭のない人の場合は、それは「将来の家庭」の問題、「婚活」の問題です。それをバカにした仕事人間が味わうのは、定年離婚の悲哀です。定年前30年に対し定年後も30年あるのにです。
家庭内に限らず、子供や若い人に、何かを伝えることの大事さを痛感します。全力を投入した仕事も、10年で消えてしまう現代では、20年、30年残る仕事は「教育」だと思います。それはプロの教師が収入のためにやる「仕事としての教育」ではなく、自分にしか伝えられない独創的な内容を伝える「趣味としての教育」です。これが出来るようになるには、プロ教師などはとても及ばない長い真剣な準備が必要です。
【現代は過当競争時代 1番にこだわるな 2番でよい】
80%が合理的な努力配分とわかっていても、それが大きく狂い、必ず100%近くになってしまうのは内部競争のせいでしょう。80%と決めていても相手が90%で出てくれば95%で対抗することになり、それを受けて相手は98%となるからです。こうして競争によって投入努力が増えた分、成果が上がればいいのですが、必ずしもそうは行きません。80%で基本的な成果が上がってしまった後、将来のための時間を削って努力を追加しても、その効果は微々たるもの、自己満足程度に終わる可能性が大です。
私は人間社会には、競争は必要と考えます。しかし問題が生じるのは、評価と判定に問題があるからです。第一は、判定者の心理と利害のために、判定の公平さが疑われる問題です。これへのあ対策として「客観的評価」の名でおこなう「数値指標評価」が一般的となっています。この評価の問題点は、評価の対象項目が、数値として容易に計量可能な項目に限られてしまうことです。Sports 競技の場合は、それでよいのですが、知的能力の産物である工業製品や論文の評価を、この方法だけで行うのは、問題なしとはしません。特に人物の知的能力の評価を、この方法だけで行ない、客観的評価と折り紙をつけるのは、問題です。
例として、頭の中の知識の豊かさを、評価する入学試験を考えます。そして頭の中の知識を、知識の粒が積みあがった山のように想像します。この山の「高さ」と「広がり」を知れば、知識の総量が評価できるはずですが、高さは計量できても、広がりは計量できませんので、試験では、1点の知識の高さを測って、これが知識の総量を表現している、とみなします。この方法は、知識の山の形が、相似である場合は正しいのですが、そうでない場合は成り立ちません。そこをうまく利用するのが、受験競争に勝つプロです。彼らは、徹底して広がりを抑え、知識を一点の高さに集中することで、ごく少ない知識で難関を突破します。能力の 100%, 120% を出す努力とは、冷静に見れば、そういうことです。
したがって、「目前仕事への努力配分は80% にし、将来と周辺への配分を残す」という Strategy (戦略) と「競争には必ず勝つ」という Strategy とは、真っ向からぶつかります。どちらを取るかの判断ですが、過当競争という社会現実の中で、独創的な生き方をしたい人は、原則的に「目前仕事 80% 」の心構えは、守るべきと思います。しかし一旦競争がはじまると、人間の闘争本能のために、この理想を守ることは、容易ではありません。強い心構えが必要です。それが
l 一番にこだわるな 二番でよい
です。「一番にこだわるな」は 独創的仕事への評価は、自己評価でおこない、相対評価を気にするなということです。「二番でよい」は理想は追っても、生存競争で消されたら意味はないので、生き残りGroup に残るための心構えです。
EpisodeⅠ 最初の仕事の成功の後に何がおこったか
最初の成功の前と後、なぜ話を分けるのか
以上は私が伝えたいことの全体を示したRout Mapです。次にこれを具体例で論証するEpisodeを述べることにします。Episodeは具体的事実そのものであることが必要なので、私は自分の体験から話します。私はプロセス工学の次に公害、その次に遺伝子工学と幾つものまったく経験なかった分野で、独創的な研究を続けて来ましたので、新しい分野に研究を進める時、先にあげた原理や心構えがどのようにきいたのかをEpisodeで示すことは出来ます。そう思って体験を頭の中で整理しているうちに、重要なことに気付きました。それは「最初の仕事の成功」の前と後で、自分と周囲との関係が、まるで違っていることです。「成功の後」は、自分の考えと独創で、比較的容易に次のStepへの展開が出来る反面、周囲の嫉妬や上からの圧力も強く、何度も挫折の危機にさらされます。でもそれぞれの局面で挫折であるにせよ、単なる生き残りにせよ、自分の考えと決断で自分の運命を決めた自覚があります。これに対し「成功の前」は、自分の運命が周囲の力で振り回された感じがあります。自分の選択があったにせよ、それはやむを得ない選択であったか、あるいは「どちらが有利か」の判断であって、自分の運命を決めていたのは、自分ではありません。自分の考えで出来たことは、勉強すること、資格を取ること、新しい仲間に入ることなど、時間をかけて、将来の自分を準備することだけでした。
時代をEpisodeで語ろうとすると、後期はChronological (時系列的)に語っても十分に迫力があり「意味」がつかめますが、前期は同じ方法ではほとんど「意味」がありません。何をとっても、失敗か中絶、立ち消えに終わっているからです。それが意味を持つとしても、それは何かが成功した後、よく振り返ってみた後のことです。前期とは「無数の失敗」ばかりの歴史です。成功とはその中に起こった例外中の例外です。この成功から時間を道にたどれば、一本の成功の筋道が見えて来ますし、これを時系列的(Chronological)に語れば一つのEpisodeになりますが、独創論のEpisodeとしては意味がありません。節目節目で、運を天に任せて行った無為の選択が、すべて成功したというお話になるからです。圧倒的に失敗の可能性の高い中で実現した成功ですから、自然に行った選択にせよ、そういう状況を作り上げたのは、そのずっと前からのいろいろな準備の結果であると思います。「前期」を語るにはそういう工夫が必要です。
このような訳で、成功の前と後では、Episode の叙述の仕方をまったく変える必要があります。Episode を二つの時期に分けたのは、そのためです。まず 常識的な叙述が可能である最初の仕事の「成功の後」の話から入ります。
独創仕事の最初の成功 化学プロセス工学
私の最初の成功は35歳の時、「化学プロセス工学」の発行です。この仕事が独創的である理由は、数学とは無縁の化学の分野の中でも、最も泥臭い仕事である「化学プロセス設計」をとりあげて、これを最高級数学を駆使する新学問体系として確立したこと、しかもそれが、実用上非常に有用なことがわかり、従来のプロセス設計の考え方を、根本的に変えて行ったことです。
技術的内容に興味のある人の為に少し付け加えると、プロセス設計とは数学的には、「多成分、多ループ」の「非線形システム」の「最適化問題」でした。1960年代は、Computerの能力は、今と違って大変貧弱だったので、多ループの非線形Systemの収支収束計算で手一杯で、最適計算までなかなかでした。それを最適計算まで含め、同程度の時間で解決できる方法を考えたのです。その要点は最適化の変数を、要素に装置の「構造変数」ではなく「性能変数」に変えることでした。性能をパラメータにし装置特性を行列で表現すると収束計算は著しく容易になります。すると各要素の入力と出力が決まりますから、それを満たす構造を設計し最適化計算に入れます。この「成功の鍵」は、構造を与えて性能を計算する普通の計算方法を逆転させ、性能を与えて構造を決定する計算方法を、体系化することでした。このためには化学プロセスの一つ一つの装置の動作原理について、徹底的に具体的な研究を必要としました。装置特性の行列表現も、これによって可能になったのです。単なる高等数学の応用ではありません。そしてこの時、あらゆる装置を深く知ったことが、プロセス工学以後、環境生態系に立ち向かう時、大きく役だつことになりました。
「化学プロセス工学」は矢木栄・西村肇の共著になっていますが、執筆は100% 私が行いました。ところが印税配分は、50、50でした。理由を聞くと、「印税の配分は、仕事への寄与を表すものだ」という答えが返って来ました。はじめ大変不満に思いましたが、よく考えてから、考えが変わりました。プロセス設計という泥臭い仕事を、学問にすることを夢見て 新しい研究室を作り、そこに私を呼び寄せたのは矢木です。新しい現象の発見だけが研究で、「設計理論作り」に乗り気でなかった私の考えを、1年かけて変えたのも彼ですし、成果が上がる度に「ここが頂上」と思う私を、もっと高い頂上に向かわせたのも彼です。それをすべて考えると「これは矢木栄の仕事であって、私の仕事とは言えない」、「自分が目標設定した仕事でなければ自分の仕事とは言えない」と確信するようになりました。
独創的な研究課題の追求 「瀬戸内海汚染」
そこで著書発行直後から次の仕事への模索が始まりました。1年かけて到達した結論は「化学工場の塀の中を最適化した結果、塀の外の環境がひどく汚染された。これを直すために塀の外を含めたSystemの最適設計を、研究しよう」というものです。これを、自然生態系 の中で産業を計画設計する新学問「産業エコロジー(Industrial Ecology)」と名付けて提案したところ、大変な反響を呼び、通産省のProjectとして予算がつきました。通産省は、一般理論とComputer Simulationを望みましたが、私は「具体的でなければ発見はない」、「発見ない研究はやる意味がない」と拒否し、当時汚染のため泥海となっていた瀬戸内海の回復を、Themaにしました。
具体性を必須とする私の研究方法は、過去瀬戸内海の水質汚染を, 漁業の側から研究したデータを全部集め「頭の中」に瀬戸内海の汚染の仕組みを, 作り上げることでした。それに妨げになったのは, 私達が、現地を知らないし、自分の手で分析したことがないので、各種水質分析、生態系調査の数値は知っていても、具体的意味が、頭の中に沸いてこないことでした。そこで決心したのは、研究室全体をあげて瀬戸内海に取り組むこと、各地の現場をくまなく訪れ、自分達の手で調査することでした。特に水質分析、生態系調査は、全部自分達の手でやってみることでした。東大の工学部の研究室で、これが出来たのは、あの時代(1970年初期) の雰囲気と思います。それを含めて、当時の研究室の様子と研究の実際を伝えているのは、私の著書「冒険する頭」(筑摩書房)です。これは絶版になりましたが、私の Home Page ( http://jimnishimura.jp ) で全文読めます。
Industrial Ecologyの旗を揚げてから、研究室の関心、議論は、技術全般から経済にまで広がりました。その目的は知識を得るためではなく、発見するためです。頭の中に問題をかかえていて、広い知識があって、現場に接すると、大きな発見をすることがあります。瀬戸内海の濁りの原因がそれです。その頃水質専門家は、濁りの原因は工場排水と主張していました。私は「プロセス工学」の方法で計算してみて、それは違うのではないかと疑っていましたが、それなら何が原因かわからないので黙っていました。ところが現地調査で分析作業をしている最中、見かけない工事船の周囲が白く濁っているのを発見しました。聞くと海底の泥を吸い上げて、泥水をパイプで沿岸に送る浚渫船だそうです。その目的はこの泥水を使って、海岸を埋め立てるためでした。これで気がつきModelを立てて Simulationし「濁りの原因は浚渫埋め立て」という論文を発表しました。工事をしている専門家自身はまったく気付かなかったことです。すぐ国会に呼び出され、厳しく反論されましたが、私の説の正しさが認められ、瀬戸内海での浚渫埋め立ては、全面禁止になりました。そして3年後には、瀬戸内海の濁りは、汚染前の状態に戻りました。濁りのほか赤潮、重金属汚染、PCB汚染も順々に研究し、私もやっと「自分の仕事」が出来たと思えるようになりました。
独創的活動 メーカーと対決して「排ガス規制」を実現
こうしている時、東京都の美濃部知事から、「自動車排出ガスの規制技術の現状を調査する七大都市調査団を作りたいが参加してくれないか」との依頼がありました。趣旨は 「自動車排ガス中の窒素酸化物(喘息の原因物質)の排出量を1/10に規制する51年規制は、すでに国会で決まっているが、環境庁は、メーカーのいうままに、技術的不可能を理由に、規制の実施を無期延期しようとしている。「不可能」が本当かどうか、メーカーを聴聞会に呼んで聞き出すことで、本当のところを明らかにして欲しい」、ということでした。この話がなぜ私の所に来たかというと、自動車エンジンの専門家は、みんなメーカーとつながりがあり、メーカーの意に反するこの仕事を、引き受けなかったからです。これに対し私は自由だし、かって航空技術研究所でEngine 内の燃焼を研究していたので、義務的な気持で、この仕事を引き受けました。そして早速、論文約300点を精読し、Engine内の燃焼条件によって 窒素酸化物濃度がどう変わるか、計算を繰り返しました。その結果、燃焼温度が十分に下がるような燃料空気比を選べば、窒素酸化物濃度を 1/ 10にできることを確信しました。
そこで、「できるはずのことが何故できないのか」、「実験したのか」、「実験結果はどうであったか」、これら聞き出すのが聴聞会の目的でした。自動車メーカー8社の Top Engineer に対し、それぞれ2時間、合計16時間の聴聞をおこないました。メーカーの基本姿勢はデータかくしでした。たとえば日産の場合、排ガス研究室長は 「テスト中のEngine のNOx 濃度はどのくらいですか」の質問に対し 「忘れました」 「排ガス研究室長が濃度を忘れることは考えられませんが」「忘れました」 でした。さらに実力技術者として有名な専務に、開発中の低公害 Engine の性能について質問したところ 「実車テストでは、1km あたり1 gram 程度です」 「実験室ではどうですか」 「実験室のデータは申し上げられない」「ホンダは 0.2 gram というデータをちゃんと出していますよ」 「私達は世の中を誤らせることはしたくない」という調子でした。
私は、理論計算とホンダの実験室データをもとに1km あたり0.2 gramの 「51年規制」は実施可能という報告書を発表しました。これに対し環境庁の大気汚染局長が、国会で 「あれは羊頭狗肉の報告書だ」とあざ笑いました。環境庁は、国民の側に立って規制を実現すべきはずなのにです。こうなると黙ってはいられません。環境庁の自動車専門委員会公開討論を申し込み、環境庁に乗り込みました。緊張して席についた私達に対し、委員長の八田東大教授は、開口一番 「技術的可能性について、私達の見解は、基本的にそちらと変わりない。たしかに規制を実施できる技術はある。ただそれを大量生産する体制を作るのにいましばらく時間がかかる」 でした。こうして論戦には、こちらが完勝したのですが、その直後に出された環境庁専門委員会の結論は、51年規制は当分延期、暫定規制値は 0.85 gram でした。
この委員会は、国民にたいしては完全に閉じられた委員会でしたが、実はメーカーには筒抜けの委員会でした。自動車工業会の事務長が出席して完全な議事録をつくり、それを各メーカーに送っていました。共産党がこのことを国会で明らかにし、委員会は総辞職となりました。このことを東大内で報告したところ、少ない出席者の中に、一人だけ教授が出席していました。燃焼の分野の Nobel賞 に当たる Lewis 賞を取った熊谷教授です。学問一筋で、社会問題に立ち入らないと思われていたのに、自分から「51年規制はやろうと思えばやれたのです。環境庁にやる気がなかっただけです」と明言しました。くわしく話を伺うと、教授は自分が発明したEngineを、日産と三菱で実車Testしたところ51年規制を完全にClearしたのに、日産は規制をやらせないために、このデータを完全に隠しているのだということでした。これを知った共産党のK議員は、教授をたずねて話を聞いた上、国会に日産と三菱の社長を呼んで事実の確認をせまりました。三菱は事実と認めましたが、日産は言い逃れに終始しました。日産が隠していることは誰の目にも明らかでした。私はこれをもとに、熊谷Engine についての論文を発表しました(公害研究 1975年)これは大変な反響をよび、世論が変わり、2年遅れですが51年規制の実施が決まりました。
【本当のNobel賞 本当の大学教授とは】
この2年間が日本の自動車工業を変えました。勝手に無期延期と決めて、排ガス対策など真面目に研究していなかった各社が、初めてEngine内の燃焼の基礎研究に、真剣に取り組んだのです。その結果は驚くべきものでした。各社とも排ガス規制をClearできただけでなく燃料消費性能が、著しく向上しました。折からEnergy危機で、燃料費に神経質になっている米国で日本車が爆発的に売れました。日本の自動車が世界的になったのはそれからです。あの時、排ガスを1/10 にする規制が実施されず, 無期延期されたら、世界の都市は間違いなく排ガスで窒息状態になっていたでしょう。この決定的な「Switch切替」のもとになったのは、熊谷Engineの発明です。熊谷教授こそ一番「Nobel賞」にふさわしい人と思います。「人類」の「ため」になった発明に賞を与えるのがNobelの遺志だからです。
でもこの貢献は、善意に囲まれた雰囲気の中で行われたのではありません。逆です。教授が電話で定年の挨拶を、日産のN専務にしたとき、N氏はひどく興奮した調子で言ったそうです。「御忠告しておきますが、七大都市や共産党のしり馬に乗っているとおためになりませんよ」これに対し教授は静かに答えたそうです。「共産党に対してであろうと何であろうと、自分の責任で言える範囲について、本当の事を話すというのは大学教授として当然のことです。そうしないとはかんがえられない」
これこそが大学教授のあるべき姿と思いますが、私の知る限りこういう教授は他にいませんでした。理由はまず第一に独創する能力の違い、第二に自負心から来る純粋度の違いです。熊谷教授は、まさに独創人の見本でした。態度、言動は純粋でしたが、専門だけに限られていたのではありません。自分を取り巻く全ての問題に、関心と知識と判断を持っていました。排ガス問題も、他の人より5年は早くつかんでいたので、早い発明が可能だったと思います。
袋叩き 反論「裁かれる自動車」 東大追放 逆転させた人
日産、トヨタの思わく通りに51年規制を無期延期していたら、低公害Engine技術で日本が独走することはなく、日本の自動車工業が世界一になることもなかったと思います。間違いに気付いての軌道修正が、成功の原因だったのです。これは「水俣病の悲劇」への反省が、日本の公害対策を世界一に、したのと同じでしょう。しかしそれは、全体を冷静に見る人の見方であって、事件を追う人々はそれに気付きません。まして財界と政府は、自分達のウソが暴かれたこと、自分達の方針が、根本変換に追い込まれたことで、すごい危機感を持ったようです。反撃に出てきました。
【「魔女裁判」攻撃
反撃「裁かれる自動車」】
第1弾は大衆Journalism(ジャーナリズム)を使って、私の悪評を立て、社会的に私を葬り去ることです。そのため、聴聞会は、集団Hysteria(ヒステリー)の中で、無実の人を犯人に」仕立て上げる「魔女裁判」であった、というCampaign(キャンペーン)を「文芸春秋」1冊をあげて特集しました。私は魔女にされたのです。いまは有名なNon Fiction作家 柳田氏 の出世作ですが、効果がありました。大学の中で挨拶をしていた人々が目をそむけるようになりました。柳田氏のNon Fictionだけから判断しているようです。Non Fictionは, 無条件に客観的と 受け止められていますが、書かれたことが「表面的事実」といいうだけのことで、都合悪いことを無視して論旨を通すので、客観的とはいえません。聴聞会に 柳田氏は出席しておらず、日産専務 N氏と私のやり取りも聞いていません。取材も多分メーカーだけ、私にはありませんでした。さらに問題なのは、公開で開かれた聴聞会だけを問題にして、厳正中立を理由に閉ざされていた専門委員会が、完全にメーカーの談合組織であった事実に目をつぶっていることです。共産党が暴露した完全議事録があるのにです。そして中心人物というべき熊谷教授に一切取材してないのも Non Fiction の名にそむきます。
反論しようと決心しました。本当のことを全部Disclose(公開)すればよいことは明らかでした。ただ相手は「文芸春秋」なので、こちらは中公新書を選び、題名は「裁かれる自動車」としました。執筆にあたっては、自然科学的客観性を大事にしました。その原則の第一は、言葉による要約を排し具体的記述に徹底することで、表面性をさけることなので、記述は、自分が直接に見、聞き、実行したことに限りました。聴聞会での日産とのやりとり、熊谷教授に対するN専務の忠告も、そのまま入れたのはそのためです。原則の第二には、一面性をさけ、問題を「全体としてつかむ」ことなので、公開の聴聞会の裏で行われていた密室での専門委員会の議論も入れました。
出版後、同書は内容、表現ともに非常に好評で、同年の毎日出版文化賞の候補の圧倒的 1位にあげられていました。反論は成功したかに見えましたが、予期しなかった妨害がありました。不明な理由で、出版文化賞が受賞できなかっただけでなく、、よく売れていた中公新書が、初刷で絶版になりました。担当していた編集者も、突然退職となりました。大きな圧力が働いたことは間違いありません。
「裁かれる自動車」は絶版ですが、現在、私の Home Page で主要部分は読めます
裁かれる自動車
【東大追放 劇的逆転】
この大きな圧力は、「著書」だけでなく、「著者」も絶版にするように動きました。後からわかったことですが、K工学部長が学科教授会に対し、私を放逐するよう厳命しました。教授たちは、苦労して私の放逐先を探し、地方市立大学の助教授に私を降格転出させる人事で、相手教授会を通してしまいました。私のまったく知らない間に、私の承諾なしにです。でもそれを、私に通告できる教授がおらず、すでに退職して大企業の副社長をしていた矢木教授に、その役を頼みに行ったようです。矢木教授は、プロセス工学の講座担当として私を残していったので、一応の了解を取りにいったのかもしれません。当然「なぜか」という話になり、わたしの排ガス規制への取り組みが、放逐命令の原因と説明したのだろうとおもいます。私は突然矢木教授に呼び出され、「公害の研究はやめたらどうだ。やめるつもりがないなら、大学をやめてやるんだな」と言われました。
これは一旦決まった人事をひっくり返すための大芝居であったと思います。東大に残って欲しかったのでしょう。私はその道を選びました。
独創的教育「考える遺伝子工学」
公害の研究を禁止されての東大残留でしたが、私は残留の意義を、独創的研究の精神を持った研究者を、多数育てることに置きました。それにふさわしい研究 Themaとして、当時(1980年)工学部では誰もやっていなかった「遺伝子工学」に取り組みました。私はまったく未経験なので、猛烈な勉強をする中で思いついて、始めたのが、遺伝子工学を「憶える学問」から「考える学問」とする授業です。具体的には、ノーベル賞をもらった利根川の研究について、その考え方とやり方を教えないで、そのかわり、利根川の目的と、当時利根川が利用できた知識と実験手段だけを教えて、解決法を、一週間かけて考えさせるのです。この授業はすごい人気で、すごい学生が研究室に集まり、火がついたように新しい研究が始まりました。研究対象は、初心者が誰も手をつける、大腸菌遺伝子ではなく、動物遺伝子にしました。
その後は別な意味で大変でした。他学部から「生物の学位がない者が生物の講義をしてよいのか」という批判が出て、学科内でも問題視されました。そこで私は「3年で日本の第1線、5年で世界の第1線に出る。それが果たせなければ、辞職する」と約束して承認されました。とても不可能な約束に思えましたが、7年後にはNatureに論文が出、10年後には12名の学生が博士を取得し、私は無事定年退官しました。私の生涯の中でもっともProductiveな10年であったと思います。
この成功は、ほとんど不可能と思える新しい課題に、挑戦したからだと思います。そして挑戦する気になったのは、公害の研究を止められる、という深刻な事態から抜け出るためです。それでも抜け出る方法として、遺伝子工学を選んだのは、学生時代から20世紀前半で、物理学の時代は終わり、後半は生物学の時代、という確信があったからです。これは、あとに述べる航空技術研究所時代、物理学者武谷三男氏が指導する研究会で「20世紀の科学の歴史と展望、技術者の社会的役割」を、徹底研究する中で得た確信です。
定年後しかできない独創研究 「水俣病の科学」
定年退職後は、教授現職時代にできなかった研究、をする事にしました。現職時代は研究と言っても、学生が学位を得るのを助けるための活動で、自分の研究に没頭することは許されなかったからです。独創の極意(ごくい)は簡単で(Concentration(没頭)です。
Concentrationとは100% に近い注意と時間をそれに向けることです。少なくとも数ヶ月のConcentration、会議も授業も一切無視のConcentrationが、新しい創造には必要です。これは組織では許されないことです。そこで私は定年後は、一人で働いて収入を得ることにしました。技術コンサルタントと英会話の個人教授です。組織に勤めなかったもう一つの大きな理由は「水俣病の研究」です。私が公害の研究を禁止された理由は、排ガス規制のほかに、当時私が、水俣病の研究、特にメチル水銀の生成原因を、研究し始めたことにありました。当時から「水俣病」は、日本の最大の社会問題であり、研究の結果によっては、その及ぼす影響が予測できないため、企業でも大学でもメチル水銀の研究は、無言のうちに、止められていました。たまたま私が独走したために、最後は、大きな力で止められたのです。定年後も、どんな組織にせよ、組織に入ったら、上からの圧力が考えられましたので、組織には勤めなかったのです。
定年後3年間は、生活の準備をし、その後、岡本達明との共同研究に着手し、5 年間のConcentration をへて「水俣病の科学」を完成、出版することが出来ました。共著者の岡本は、私と同じ年に、同じ大学の法学部を出てから、「工場と村」を研究する目的で、チッソの労働組合書記として、25 年間、水俣に住みついた男で、チッソの工場と水俣病患者については、知りつくしています。その彼にも、どうしても解からない謎がありました。それを解くために、彼の方からの呼びかけで、始まった共同研究です。したがって、彼がRouter, 私が Climber となっての完全な共同研究でした。「水俣病の科学」は3章からなり、
第1章はチッソ工場内部を歴史的に見た研究、
第2章はチッソの排水による水俣湾の汚染を生態学的に調べた研究、
第3章は工場内でのメチル水銀の生成と排出を量子化学とプロセス工学で解明した研究
になっています。しかもこの研究の最大の特色は、この問題に携わる人が必ず疑問を抱きながら誰一人答えられなかった「謎」を取り上げ、それに完全に答えたことです。それは
チッソは1933年以来この工場を運転しているのに
なぜ20年後の1953年から急に患者の大発生が起こったか
下の図はその回答をグラフで表したものです。チッソ水俣工場から、水俣湾への「メチル水銀の排出量」の経年変化と「胎児性水俣病患者発生数」の経年変化を対比したものです。
水俣病の患者のうち、特に重篤な胎児性水俣病患者は、1952年に突然2名発生し、その後1960年まで毎年10名前後の発生が続き、1961年に激減し、1964年以降は発生がありません。その理由は誰も答えられませんでしたが、私は工場内での、「メチル水銀の生成機構」の解明に、初めて成功しただけでなく、系外への「メチル水銀の排出量の推定」という定量的研究にも成功しました。創業開始(1933年)から停止(1968年)までの全期間についてです。図はこの二つの数値の経年変化を対比しています。二つは見事な一致を示しています。最大の社会問題でありながら科学的研究が皆無であったこの問題を、高度な理論研究と最少限の実験でほぼ完璧に解決した研究は、専門家から最高の評価を得て毎日出版文化賞を与えられました。
でも、研究完成後から出版に至るまでの道程は、一筋なわではありませんでした。朝日新聞、岩波書店、東大出版会に順々に持ち込みましたが、次々に断られました。岩波書店は「この本は7千円になる」と、信じられない理由をつけて断って来ました。「裁かれる自動車」を絶版にした中央公論社と、同じ体質を感じました。途方にくれた時、引き受けてくれたのは、中小出版である日本評論社の黒田編集長(現社長)でした。我々の仕事の質と意義を評価し、志に共感した純粋な心の支援でした。
EpisodeⅡ 成功するまでの世界 可能性と立消えの海
成功前の世界と記述
歴史を記述するには継起的と遡行的と二つの方法があります。継起的はある事件を起点につぎつぎ起こったことをそのままに時代順に記述する方法、遡行的はある事件が起こった原因を求めて歴史をさかのぼって行く方法です。昭和史なら、満州での張作霖列車爆破事件以後の歴史は、日本の敗戦に至るまで継起的に語られます。それは誰が語っても同じです。これに対し、それ以前の大正時代の歴史は、同じ方法でやると、立ち消えになります。1918年、全国に広がった「米よこせ」暴動、1921年、摂政 裕仁 (後の昭和天皇) の狙撃事件と内閣総辞職、などは、大きい事件ですが、単純に追うと、立ち消えになります。この時代は、立ち消えにならずに残った事件を起点に、それを可能にした原因と事件を、時代を遡って追ってゆき、、原点に達したあと、その点を出発点に、継時的に記述する、しかありません。ただし原因は、見方により、さまざま考えられます。張作霖事件の場合は、軍事的、政治的、経済的、見方があります。
私の研究の仕事についても、同じことが言えます。最初の成功以後の歴史は、必然的な Drama として、見える歴史として語ることができました。これに対し、成功するまでの約10年の歴史は、何か注目する事から出発して継起的に語れば、ほとんどすべて「立ち消え」の歴史です。まず遡行的に、原点を訪ねる必要があります。遡行に必要な問題意識は、『化学プロセス工学』の研究はなぜ可能だったかです。
成功する独創的仕事は必ず「二人仕事」ですから、「化学プロセス工学」の成功は「矢木教授と私が出会ったこと」、そして「二人が合意したテーマが『化学プロセス』であったこと」です。こう書くと、常識的には、「それぞれ化学プロセスに深い関心を持っていた二人がどこかで運命的な出会いをした」直後から、長い協同研究が始まったと想像しがちですが、現実の世界で起こることは、違っています。以下では貴重な出会いを必要とする若い人のために真実をEpisodeとして話そうと思います。出会いを幸運な一瞬のもののように思っていると、永遠にその機会から見放されるからです。私の経験では出会いは数年間も続くもので、これを出会いにしようと思った双方が努力して出会いにしていくものです。研究のTargetも、それぞれが初めから考えていたTargetが、偶然にも一致するものではなく、数年間の出会いの中で、それぞれの考えが発展し、変っていった結果です。「出会いと目標」は別のことでなく、絡んでいるのが現実です。それをRealに伝えるつもりです。
矢木教授との最初の出会い
矢木教授に初めて会って研究の話をしたのは学部の4年生の時でした。しかしTargetを「プロセス工学」に決めて緊密な協力研究を始めたのはその6年後でした。その6年が必要だったか否か、意味があったのか否かは要約しては答えられません。Episodeとして表現できるだけです。
矢木教授と最初に話したのは、研究についてAdviceを求めるためでした。当時私は、25歳までには最初の独創的な仕事をしなければならない、と考えていました。自分で見つけた現象について、実験し、理論解析したいと考え、身近な農業用噴霧器を取り上げ、自宅の庭で実験し、理論を考えていました。W. Heisenberg(量子力学の創始者)が最初に書いた論文が, まさにこの問題であることを知り、調べたところ、彼が仮定している現象が、実際と違っていることに気付きました。彼は、液体は真直ぐな注柱になって噴出されるとしているのに、実際は旋回する液膜となって噴出されるのでした。そこで私はHeisenbergの「液柱の安定性」に対抗して「液膜の安定性」論文を書こうと仕事を始めましたが、液柱では考えなくてよかった表面張力をどうするかで、壁に突き当たってしまいました。
そこで、所属学科で実力一番のF教授を訪ねたところ、私の話は理解できない様子で、「余計なことは考えずに、学生時代はもっと、機械の必須科目の勉強をしなさい」と諭されました。次に訪ねたのは、工学部で数学力が一番との評判の、航空学科のO教授でしたが、話を半分聴いただけで「君には無理だよ、僕がやろうと思っている問題だから」と追い返されました。次に化学工学科の矢木教授を訪れたのは、講義の一部で微粒化の問題にふれていたからです。私が質問を始めると、学生の質問と思って立って応対していた矢木教授が、いきなり「どうぞお座り下さい」と言って椅子を薦め、15分ほど真面目に話を聞いてくれました。Heisenbergの論文は知らなかったようですが、話の筋はよく理解したようです。そして最後に、アメリカで出版されたばかりの微粒化の総説を、壁一面の本棚から探し出して来て、貸してくれました。
この時の矢木の態度で、私は彼が好きになりました。、当時、質問に来た学生に「どうぞ」と椅子を勧める教授は、いませんでした。F教授からは「学生は部屋に入るな」と言われ、廊下で立ち話したほどです。矢木も、教授として権威をつけることでは、典型でしたが、話の内容によって、すぐに人格的対等になるのでした。戦前、米国で身につけた態度とおもいます。もう一つ、私が矢木に引かれた理由は、最新文献の豊かさでした。当時、外貨割り当てが厳しく、外国雑誌は工学部の中央図書館にあるだけで、研究室で米国の雑誌を講読しているところは、ありませんでしたが、ところが、矢木研究室には10種の雑誌がBack Numberつきでそろっていました。矢木は、戦後、米軍総司令部から頼まれて大学改革の仕事を行ったので、その便宜と聞きました。これも含めて私は大学院は矢木教授と決めました。
私が矢木の研究指導を望んだのは、化学工業全般についての矢木の知見経験と研究指導における矢木の理解力、判断力を貴重と思ったからです。それは裏返していうと研究実務の指導を、希望しなかったのです。細かい干渉をしない指導者として、矢木を考えたわけです。二人の関係をこのように持っていくためには、私の研究実務能力を、矢木に十分納得させる必要があります。その方法として考えたのは、矢木の講義の試験を受け、抜群の成績をとることです。問題は、複雑な伝熱現象を、Model化し、近似計算で最後まで答を出すものでした。博士論文執筆中の助教授が考えた問題ですが、良い問題でした。これを完全に解き終ったあとの快感は、今も忘れません。この答案は、他学科の学生がいきなり試験を受けて、助教授並みのLevelで完全解答したというので、矢木には強い印象を残したようです。その気持は、その後大きく揺らぐことはありませんでした。
生涯最高に勉強の1年間 ソ連物理 理論化学工学の構想
こうして、化学工学の大学院への進学を決めてから、卒業までの半年間と。大学院に入っての最初の半年間ほど、最高の勉強が徹底的にできた経験は, 生涯ほかにありません。まずPrigogineのChemical Thermodynamics (530 page) で熱力学を、HirschfelderのMolecular Theory of Gases and Liquids(1240 page)で量子統計力学を, BatchelorのHomogeneous Turbulence(200 page)で乱流理論を読破しました。どの一冊も,今も手元にありますが、時空Fourier 変換のTensor 解析など、高高度の内容で、このとき苦闘したことが、その後の私の理論解析の Back Bone になりました。
これらの本はすべて英語ですが、私の本命はロシア語の本にありました。その頃、Sputnik打ち上げでわかるように、ソ連の科学技術は、世界一でしたが、工学部には、ロシア語が読める人がいませんでした。私はその事がわかっていたので、3年生の時、毎晩ロシア語学校に通って、ロシア語をMasterし、4年の時は、科学技術文献を自由に読めるようになっていました。そこで神田のロシア語専門店に行って、ソ連から入って来る最新文献を、片端しから買ってきました。安かったからです。その頃読んで大事だったのはKolomogorovの「乱流理論」、Levichの「化学流体力学」、Frank Kamenetskiiの「反応速度論における拡散と伝熱の役割」です。Kolomogorov はソ連の最高の数学者、Frank Kamenetskii はSacharov (サハロフ) を助けてソ連の水爆を完成させた物理化学者です。
私は勉強した内容を丁寧に要約したPrint を作って、矢木研の談話会で発表しましたが、すごいImpactでした。単に理論が、まったく考えたことがないほど新しいだけでなく、その結論が具体的で、実用的だからです。現在の計算機乱流理論の中心定理であるKolomogorovの乱流理論も、この時、私が初めて日本に紹介したものです。こうなった原因はアメリカとソ連の学問の態度の違いにありました。当時アメリカでは、科学と工学の最先端は離れていました。そこでアメリカ生まれの化学工学はまったく理論なし、実験データだけの学問でした。これに対し、ソ連では先端科学の応用が重視され「技術物理学」(Technophysics)が学問の大きな中心だったのです。
こういう状況であれば、ソ連流「技術物理学」を骨格にし、アメリカ流「化学工学」の実験Dataを肉付けとすれば、基礎的でありながら実用性の高い新しい化学工学ができると展望できました。この「新化学工学」は、、骨格が基礎的なので化学工場を超えた広い範囲に適用可能であり、新しいGeneral Engineering(一般工学)になるだろうと見通せました。そこで私は、大学院研究論文を、「新化学工学体系の提案」とする決意をしました。
突然の暗転 開発研究の命令 爆発事故
この計画を周囲の同僚に語ったのですが、例外なく反対されました。「実験しろ」の一言です。 化学者は実験以外は意味があるとは思いません。矢木だけは少し違っていました。「フラスコ、ビーカーのLevel では純粋な化学反応だが、大型の工業装置になると物理現象の影響が決定的になる。だから化学が工業になるためには、物理と理論計算が不可欠」という考えでした。でもある日、突然呼びつけられ次のように言われました。「私はMIT (Massachusetts Institute of Technology)にいた時から、化学工学は、拡散と伝熱を入れた「反応工学」に進まなければならないと主張して来たが、アメリカ人は理解しなかった。最近のロシア人は、だいぶ理解しているらしいのは結構なことだ。今こそこの「反応工学」の構想を実現したい。君が興味をもっている理論も大事だが、それを化学者に理解させるには、実験で成功するのが一番よい。君には実験もやってもらう。詳しいことは助教授のK君に聞いてくれ」です。
この「藪から棒」の実験命令には、次のような事情があることが、すぐわかりました。当時「部分燃焼」による「アセチレン製造」が化工業界で第一の話題 Key Wordでした。これに加わるべきと思った矢木が、K助教授の切り札である「移動床」というKey Word をそれに組み合わせて、「移動床による部分燃焼」という特許を申請したところ、すぐそれに反応し、多額の研究費と研究員派遣を、申し出る会社が現れたのです。ところが急にK助教授の留学が決まったので、手のあいている私に、やらせることになったようです。
この一言で私の日常は暗転しました。私は会社員3人を使って、研究に全責任を持つ係長にさせられた訳です。会社員3人は朝9時に来て職務の指示を仰ぎますから、仕事をいいつけなければなりません。私の方は、大型反応装置を設計発注し、分析のため必要なGas Chromato-graphyを全部自作しました。市販品がなかったからです。こうして3ヶ月後、実験が始まりましたが、できるのは一酸化炭素ばかりで、アセチレンは、影もありません。そのため考えられる限り操作条件を変えてみましたが駄目でした。するとK助教授から純酸素を使って燃焼温度をあげよ、という指示が来ました。非常に危険な作業ですが濃度を上げて酸素濃度を50%にした時、大爆発が起こりました。丁度昼食のため、装置を離れている時の事故でしたが、その現場を後で見て慄然としました。爆発で割れた覗き窓のガラス片が、じゅうたんの様になって壁に突き刺さっていたのです。作業中であったら間違いなく全盲になったと思います。
このような中で、極秘であったS社の部分燃焼法の操作条件も少しわかってきました。それと較べると、移動床では絶対にAcetylene(アセチレン)が出来ないことがわかって来ました。Acetylene 生成には、2-3 ms(ミリ秒)の急冷が必要なのに、理論計算では、移動床では 10 ms 以下の急冷 は不可能だったからです。それを機会をとらえて矢木に訴えましたが、聞く耳を持ちませんでした。「理論は行動を起こすためのもので、やめるためのものではない。理論はいつも不完全なのだから、やってみなければわからない」 でした。
極秘でやめる準備 不安と不毛の1年 最低の修士論文
私は矢木の研究方法に失望しました。燃焼現象は好きなのでこれをもっと基礎的に研究できる所に移りたいと思い、教授室で受けた燃焼講義で親しかった熊谷教授に相談に行きました。すると来年から航空技術研究所に燃焼研究室ができる。そこはどうかと薦められ、中西教授に会いに行くと希望するならとすぐ内定になりました。当時、公務員の給料は極端に安かったので五体満足で公務員志望者はいなかったのです。
ここまでは簡単でしたが、私に大いに期待している矢木に対し、この決定を正直に伝えることは出来ないことでした。そこで「経済的理由で博士課程には残れません。修士でやめます」と伝えました。一瞬驚いた矢木ですが、すぐ平静に戻り、机上の電話でM化学のS社長に、私のことを頼みました。「大学で研究させたい男がいるが、会社で雇って給料を出して欲しい」です。一高の同級生であるSはその場でOKし、矢木は満足顔でした。その時「それは話が違います」とは言えませんでした。後になるとますます言えず、その状態は、M化学の正式採用面接の前日まで続きました。土壇場に追い詰められた私の、支離滅裂な白状を聞いた矢木が、電話を取り上げS社長に何度も頭を下げて謝っている姿は、矢木らしくなく、申し訳ないと思いました。その後の私の研究は、移動床内の部分燃焼では、「Acetylene」 はできないことを実証する研究でした。それを修士論文として提出しましたが、最低の修士論文でした。よく通っだと思います。こうなった原因は、指導教官にあるので、矢木が言い訳として、通してもらったと思います。
なぜ期待を裏切られたか 指導者の複雑心理
大きな期待をもって出発した、矢木研での研究が、こういう結果になったのは残念でした。理論研究については、ただ一人の理解者だった矢木が、実験では研究とはいえない開発研究を強要したことです。その原因は、熊谷教授と比較してみるとよくわかります。二人は理論と、発明についての態度で、正反対でした。熊谷は、数学的議論を軽蔑していて、三角関数以上はいらない、と思っている風でした。これに対し矢木は、最先端の理論の応用が、大好きでした。炎からの放射の研究では、分子によるRayleigh散乱の理論を、炎の長さの研究では, von Karman の乱流理を, 使った最初の人です。ところが, 発明になると, 熊谷は空燃比とNox濃度の関係を丁寧に計算して, 熊谷Engineを発明したのに対し、矢木の発明は, 思いつきで定量的検討はありませんでした。さらに矢木の特質は, 社会の関心の中心にいる野心が、強いことです。原子力、石油化学といつもその時代の中心にいました。これは、二人のおかれた境遇の違い、によるところが多いと思います。熊谷は、大物教授だった富塚教授に可愛がられ、はじめから東大助教授でしたが、矢木は卒業後、工場技師から出発し、東工大助教授を経て、東大教授になった人で、それも招かれたのではなく、大きな力を使って、東大に石油工学の2講座を作らせて、その教授になった人で、いつも自分の手で、自分の道を開いて来た人だからです。独創する人間は、社会の中心近くのよく見える所にいて、実力を誇示していない限り、簡単に消されてしまうことを知っていて、そのための努力を、しつづけたのだと、思います。
いずれにせよ、入った時の高揚した気分は思い出せないほど、打ちひしがれた気分で、矢木研を去りました。人間関係が切れるのを、実感をもって味わいました。
暗夜のあとの新設研究所 偽善なしの天国的人間関係
1959年4月から新設の航空技術研究所の燃焼研究室に入りましたが、そこは不安と不満の海を1年間,漂流した者にとって、まさに生き返れた、天国でした。私はこの新しい環境の中で、初めて自分の中にあった人間性を自覚できました。そこで経験できたのは、、それまでの大学研究室では、味わったことのない、想像さえしたことのない、人間と人間の関係のありようでした。一言で言えばそれは科学的真実、人間的真実の追究だけを目的とし、それ以外を顧慮しない人間関係でした。真実を求める能力をむき出しにし、そうしない者を、偽善者として笑い者にする態度です。この点、大学の研究室は偽善者の集団です。実力のない者が、上の地位にとどまれるのは、下の者の偽善に支えられているからです。例えば、私が機械工学科に進学した時、熱力学担当教授の講義が、あまりにも程度が低いので「替えてくれ」と主任教授に申し入れたところ、主任は腰を抜かし「あの先生はとても偉い先生です。日本の学術会議の会長です」と答えたのには、こちらが腰を抜かしました。
この下の者の偽善は、上の者の無能をかばうにとどまりません。自分の利益のための心理ですから、同じ心理は、自分より優れた同僚へのねたみ、排除への努力になります。このため大学では、自負心があるゆえに偽善を嫌う人間は、上からも同僚からも排斥され、最後までは、残れません。教授に残るのは、少し自信が足りない偽善者ばかりです。そうなると、当然優れた者は追い出され、残りたいものは偽善者になるという構造が、定着します。真実を追究すべき大学研究室、純心な若い人を育てる大学研究室が、偽善を育てる場であることは、深刻な問題です。私はこのことを、大学研究室を出て、新天地でまともな人間関係を体験することで、痛感しました。
燃焼研究室でその時、天国的な人間関係ができたのは、新設されたばかりの研究所なので、上下関係なく、義務的な仕事がなく、時間があって自由なところへ、大学での偽善的人間関係に、我慢できなかった人達が、集まったことです。人間関係を実際に作ったのは、所をえらばず起こった、議論でした。その内容は、研究している目前の現象の解釈に始まり、研究目的の議論、さらには研究思想の議論に、進みました。さらにそれを越えて社会思想、人間論へ進むのが普通でした。それが、世俗世界の議論と違っていたのは、単なる知識の開示や、形式的な理屈や、思いつきは、軽蔑され、「本質で議論する」ということで、皆の意識がそろっていたことです。「本質で議論する」とは、中心人物の一人Sの言葉で、私の言葉で言えば「頭の中の知識と考え方」を出し合うことです。頭の中の知識であれば、研究の議論が、人間論に行くのは、何の不思議もない訳です。
普通なら導入として必要になる議論をとばして、いきなり本質的な議論に入れたのは、「航空Engine内の燃焼」ということで、Memberの関心も,予備知識も,そろっていたことと、Memberがすべて、高度の知求人(知的探求人)で、あったことです。この種の議論は、所かまわず、周囲の人を巻き込んで行われましたが、その中には、Boiler ManのKさんや, 作業員のMさんも, いましたが、いつも興味をもって参加し, 本質論に加わりました。燃焼の本質的議論になると、20年間, Boilerの火で苦労して来たKの口から, 関係した事実がつぎつぎ出てきました。人間論になると, 士官学校卒で, 戦乱と敗戦の中で, 数奇な運命をたどった、仲代達也そっくりのMさんのコメントは, どれも忘れられない証言でした。燃焼研究室のこの雰囲気こそは,その後、私が東大に帰ってから、自分の研究室で再現したものです。これこそが、若い人を育てる大学研究室のほんとうのあり方だと、確信したからです。
武谷学校で 日本人の研究の弱点を研究
私は学生時代から、「技術者運動」のための研究会に参加していました。物理学者の武谷三男が指導する会で、そのための本を執筆するのが目的の研究会でした。その頃矢木は原子力委員会の安全審査委員長で、日本に最初に作る原子炉の安全審査をしていましたが、その審査を批判する先頭にいたのが武谷ですから、研究会のことは、大学では絶対に知られないようにしていました。本のThemaは「今後の科学技術の展望と日本の研究体制批判」でした。そのためまず、物理学者で科学史家のBernalが書いた「歴史における科学」を参考に、20世紀後半の科学の展開を、徹底的に議論しました。その時、私が確信したことは、物理学の爆発的展開は、20世紀後半で終わり、20世紀後半の爆発的展開は、生物学だということです。私が大学で公害の研究を止められた時、迷うことなく遺伝子工学に移ったのは、この確信によるものです。
私はそのあと、Bernal の本などから知りえた英米の研究体制と、研究のあり方を、日本の場合と較べ、日本の研究体制と、日本の研究そのものへの、本格的批判を、まとめました。そしてこれを、武谷三男編「自然科学概論(3)科学者・技術者の組織論」の中で発表しました。以下は、直接知っている、何人かの東大教授達の研究を、欧米の優れた教授達の仕事と比較して、その根本的弱点を指摘したものです。
《 日本のトップクラスの論文が, 真に水準をぬく仕事とちがうのは, どんな点なのか。つねに感じられるのはつぎの点である。第一は、認識の確実性・徹底性の不足という問題である。科学はその縞果の確実性こそが唯一の生命である。ある測定が正確であり, ある推論が定理であることを保証するためには, どうしても実現しなければならない条件や状況というものがある。その時、堂々と正面攻撃をかけずに、あいまいさの残る論文を散発してはいないか。.外国で新しい結果が発表された時, 私どもも以前から大体そうではないかと思っておりましたなどといって,得意顔の人がいるが, 推測と定理のちがいこそ, 科学にとりもっとも本質的なものであることをどれほど理解しているのか, 疑間とせざるをえない。
第二は、抽象化過程の欠除という問題である。現象のまったく新らしい側面に淫目したり, 経験的・技術的なことがらとしか考えられなかったものを, 学問の対象にまで引上げたりすることは, 日本の学問に一番欠けている点と思われる。このことは外国の研究を追いまわすぱかりで, 固有の技術条件に対応した学問が生まれないという結果を生.む。日本の多くの工学者にとって, 研究とは, 何か人のやらなかったことを見つけて,計算したり実験したりする職人的な活動であって, 学問あるいは技j術全体から見て何こそ知られなければならないか, それがいかなる形で科学の対象になりうるのか, 真の科学的認識とは何かといった深い思索はない。研究室のColloquium( 談話会)で, 外国文献の講読はあっても, このような本質的な問題が, 議論されることは少ない。思想性の貧困は, 原則性の放棄を意味する。欧米の学者には明らかな思想性はないかも知れない.しかし彼らは伝統の中でそだち,すぐれた指導者をもっている.。.伝統をもたぬ者は, すべてを意識的に行なわなければならない。 》
自分の確信と思想を、広く社会に向けて公言したことで、この文章は、そのあと私の研究を支える心棒となりました。私がまったく留学する気がなかったのは、この思想からです。
【一人でやった博士論文研究、実験も理論も中途半端】
思想や原則は、無意識になるほど身につけばよいのですが、行動が、原則の言葉にしばられると失敗すると思います。燃焼研究室の私の研究が、そうでした。私は自分の研究として、身近にある工業燃焼装置に起こるTrouble(トラブル)で、理論的には誰も取り上げてない問題をやろうと、かたく決心していました。燃焼研究室の談話室で、大型ロケットで起こる振動燃焼について、私が解説していた時、Boiler ManのKさんが、Boilerで昔よく起こったボンボンボンという低周波の振動燃焼の話をしました。私はその場で、「これだ」と、これを研究Themaにしました。そこで、まず低周波振動燃焼が、かならず起こる実験系を作るのに、苦労しましたが成功しました。あとは、数学的解析ですが、現象の Mechanismは言葉で表現はできるが、数学的には表現が大変困難な系なので、近似解法を工夫しで逃げました。研究としては、実験的にも数学的にも中途半端な仕事でした。実用的には、最新Boilerではこの発生は容易に抑制できるため、実用価値は少ない研究でした。苦労したけれど、自分の最初の成功した仕事には、なりませんでした。
東大から「戻れ」 「プロセス工学」研究室をまかされる
その後突然、航空技術研究所を航空宇宙技術研究所を改称し。ロケット打ち上げを主な任務とするという政策決定が明らかになりました。Sと私はその尖兵としてロケット企業の実験設備の視察を命じられました。実は挨拶まわりです。ロケットとなれば、研究所内で実験できる訳ではなく、我々の役目は企業にうまく仕事してもらうことだからです。私にはまったく向かない仕事でした。第一、ソ連の飛行士が、宇宙から語りかける下で、Zero からの Rocket 開発に打ち込む気には、なれませんでした。
ここにいられないと思っていた頃、化学企業からは、熱心な勧誘がありました。10年後は副社長を約束するという話もありました。自分の娘をという話までありました。人の争奪が激しい時代でした。その頃、まったく連絡の絶えていた矢木教授から、電話が入りました。事務的な調子で「皆さんが帰って来い、というから帰って来ないか」です。 やめた経緯からは、考えられない話なので、しばらく躊躇しましたが、有難く感じ、承諾しました。戻ってみて分かったことは、皆さんが戻って来いといったのではなく、矢木自身が皆さんを説得して回った、ということでした。呼び戻した理由は、矢木が持っていた2講座が4講座にふえたのを機会に、拡散と伝熱の2講座を助教授に渡し、矢木自身は、反応工学2講座を担当したが、これを実験と理論に分け、私には「理論反応工学」を分担させるためでした。矢木の考えで、この講座の目的は、反応を超えて、化学工業のプロセス全体を扱うものとされ、名称も「プロセス工学」とされました。私は、その研究室の運営をまかされました。
この研究室には、応用化学ばかりでなく、応用物理からも、すごい学生が、大学院研究生として、集まりました。そして約3年で、矢木の夢以外なにもなかった空地に、優美壮大な構造物を、現出させることが、できました。5年後に「化学プロセス工学」の発刊になったのです。
「プロセス工学」立ち消えの危機 挽回のための東欧旅行
研究が実質的に終了したこの3年後に、独創性を、何より問題にする私には、もう一度、立ち消えの危機がありました。東西Europeが参加するCHISAという大きな学会から、矢木に発表依頼が来ました。出来上がったばかりの「プロセス工学」の核心であるP行列理論を、発表しようということで私が原稿を書き、Yagi and Nishimuraの名で、学会事務局に送りました。しばらくして送られて来た発表Programを見ると 著者も発表者もYagi一人になっていて, 私の名は完全に落ちていました。発表を依頼されたのも、発表するのも自分だからという理由で、Nobody である私の名を、矢木が削ったと思われます。でもこの研究の第1論文で、名前が落ちていたら「化学プロセス工学」の創造者は矢木一人で、私は単なる追随者になってしまいます。
これを打ち破るには、Prahaで行われるその会議に出席して、実質的創造者は私だと叫びまくる必要があります。でも当時、助手の公費海外出張は認められていませんでした。そこで私は、自費で私用出張をすることにしました。費用として給料の6ヶ月分が必要でしたが、そう決めて、矢木に伝えました。「君が行くなら私は行くことない」という答えも期待しましたが、そうはなりませんでした。私は演壇の下で、矢木の発表を聞きましたが、質問に答えたのは全て私でした。
でも、私費による東欧への出張を敢行し、会議に出席したことでで、矢木と私の関係は、すっかり変わりました。それまでは矢木は、あくまで先生ぶっていましたが、このこと以来、矢木の方から同格の人間として付き合って来るようになりました。やっと本心で、人間的な付き合いが出来るようになりました。私の東大追放人事をひっくり返した、矢木の私に対する気持は、こうして現れた本心であったと思います。
私の心の中の革命になった 東欧旅行
【理論思考の呪縛からの開放に必要だった直接体験】
このことがもたらした、さらに重大な変化があります。それは、私の心の中の革命です。この東欧旅行の前と後で、私が別の人間になりました。それは一言でいえば、「理論思考の呪縛からの開放」です。それまでは、本で読んで得た知識をもとに、頭の中の世界を作り上げて、それを真実と考え、たといそれに反することを経験しても、それは例外であって、真実ではないと抑えつけてきた、ところがありますが、それ以後は、経験したことの中に真実がある、と認めて、頭の中の世界を修正するようになりました。このことが、私にとって、人間革命と呼ぶほどに重大事だったのは、私が父親の影響で、子供の頃から、左翼社会主義者であり、頭の中が左翼思想の哲学と歴史観で、埋め尽くされていたからです。私にとって、特に大事だったのは、資本主義による搾取と権力による抑圧がなくなった時、人間性は自然に回復し、天国的な人間関係が実現するという思想でした。したがって私の頭の中では、ソ連はまだ貧しい社会かも知れないけれど、人間関係は天国的なはずでした。
でもこれを完全にぶちこわしたのは、ソ連と東欧を一人で旅した一ヶ月の経験でした。
【 Eiger北壁登頂のようなソ連一人旅】
これを計画した時は、想像しなかったことですが、当時, 一人でソ連国内を旅するのは、少し大げさに言えば、一人でEiger(アイガー)の北壁を登るように、困難で危険なことでした。なぜなら当時のソ連は要塞国家で、外国人を中に入れない社会でした。公式に招待した外国人にだけは、良い顔をしましたが、勝手に来て、一人で旅する外国人は、密貿易かスパイと見られ、どこでも逮捕され、厳しく取り調べられました。私も、Czecho(チェコ)国境で身体検査をされ、持っていた制限以上の米ドルを、密貿易と認定され、軍事裁判にかけられ、取り上げられました。人影まばらな国境駅で行われた、ロシア語による軍事裁判の恐怖は、今も忘れません。
旅を続けることは, さらに困難でした。日本の旅行代理店に、旅費を払って、Voucher(支払い証明書)を持っていて、これを現地で、列車切符に交換するのですが、これが一大事です。駅で、長い行列の後ろについて2時間経って、窓口に達すると、「窓口で違う、アッチ」と言われます。また2時間並んで、窓口に達すると、同じように「アッチ」と言われます。文句をいうと、少しVoucherを見た上、「これは連絡が来てないので、切符には交換できない」との一言です。さすがに頭にきて、建物の3階にある最高責任者の部屋に行って、直接に事情を説明すると、了解し、やっと解決しました。これだけのことで、朝9時から午後2時までかかりました。この複雑な交渉は、全てロシア語だけです。こうして国際列車の切符が取れた後も、朝5時に出るその列車に乗り遅れたら、後がありません。そのような時の用心のために、隠し持っていた500ドルを、取り上げられているからです。目覚まし時計のないHotelで、朝3時に起きること、前の晩Taxiを市内電車まで頼んであるが、本当に来るかどうか、市内電車の始発時間は聞いたが、その行き先に間違いがないかどうか、どの一歩か間違っても、後が無い奈落へ転落です。
【偽善を排した労働者の国とは】
毎日がこの調子の不安の中で、ロシア人とPoland人の間で、2週間、恐怖と走り回りで、汗びっしょりになる生活を、しました。一日動き回り、お腹がペコペコに空いて、Restaurantで席についても、この国では、どんなに合図しても、沢山いるWaiter の誰も、注文取りに来てくれません。しばらくしてわかったのは、このTableと隣のTableの二つを担当しているWaiterが、隣のTableの注文を取ってKitchenに行ったまま、その料理が出来るまで、Kitchenで休んでいるのです。他のWaiterは、自分のTable以外は、絶対に知らん顔です。「お待たせして申し訳ありませんね」とか「担当の者を呼びましょう」というようなセリフは、絶対に聞かれません。お客は文句を言わず、おとなしく待っています。そして終わって、お客が帰る時も、Waiter から「有難う」ということは、ありません。Waiter の給料は、国から来ており、お客に食べさせてもらっているのではないので、「ありがとう」言うべきは、労働してもらった客であって、自分たちが言うのは、資本主義的偽善だ、と言う感覚なのでしょう。
【どの社会主義理論も見落としていた 民衆の官僚化】
偽善の嫌いな私は、偽善なしを徹底すれば、そういうことかと、諦めることにしましたが、この国の、制度的欠陥として、許せなかったことが、あります。それは、国民全体の官僚化です。国民全体が国から給料をもらうこの国では、働く義務もあるが、同時に、国の執行機関の末端としての権限も与えられています。つまり、国民全体が官僚なのです。許せなかったのは、そのような国民誰もが、自分の手にある、僅かな権限を振り回して、民衆をいじめることです。30年前に行ったソ連崩壊の予測に書いたTretyakov(トレチャコフ)美術館の門番の婆さんが、その例です。どんなに頼んでも、無視して、時間前に門を閉め、自分の権限の象徴である、鍵束を見せつけながら、悠然と帰って行きました。かつて自分がやられたことをやれる立場になったことに満足を覚えているように見えました。でも若い世代を含めて、それがどこでも見られたのは、自分がどこでもここでも、官僚主義による意地悪をされる生活の中で、感覚がおかしくなり、自分の権限は、官僚的に行使するのが当然、と考える悪循環に、陥っているように、見えました。
【なぜ社会主義は、Smile
のない社会を作るのか。民衆の下層心理】
その結果、極端に暮らしにくい社会が出現していました。一番端的にそれを感じたのは、社会全体での、Smileの欠如です。Smile という笑顔には、「好意の信号」としての笑顔と、「嬉しさの表現」としての笑顔があります。Business での Smile は、「好意の信号」としての Smileですが、幾分かは、「嬉しさの表現」もあります。そして、効果的Smile とは、単なる「信号」を「嬉しさ」と「誤解」させることです。このため、偽善をきらう人はBusiness での Smile を嫌います。労働者の国で起こっていたのは、そういうことです。商店でも、Restaurantでも、「有難う」という言葉が絶対に聞かれないだけでなく、Smileもありません。店でないと、街のどこにも Smile がなくなるのです。すると人々は自然に意地悪くなるのです。
このような「民衆の心理」は、それまでの社会主義理論に、抜け落ちていた所です。権力に対抗する心理はあっても、互いにいじめあう心理は、考えてません。人間の心理は考えても、上層階級の心理からの類推であって、幼時から周囲に苛め抜かれて、ひねこけてしまっている、下層民衆の心理ではありません。それは自分が、下層民衆として体験しなければ、分からないことですが、それは普通は不可能です。特に自国では不可能です。どんな徴候からも、身元はわかってしまう、からです。私は、たまたま、ソ連で、社会の滝つぼに落ち込み、何の特権もない民衆の一人として、民衆の間で、もみぬかれたので、民衆の下層の心理を実感することが、できたのです。
【国民全部が、官僚であるより、商人である方がよい 呪縛からの開放】
朝から晩までの、この不愉快さの中で暮す中で、私は絶えず、こう思い続けました。
国民全部が、官僚である国より、全部が、商人である国の方がよい。
偽善にせよ、Smileがあるから
この思は、3週間のうちに、確固たる確信に変わりました。この Theseが、仮に、私の社会主義の思想体系と、矛盾しようと、ゆずれない真理だ、という確信です。
この時、私は、理論思考の呪縛から、解放されたのだと思います。それは「言葉」による呪縛、「理屈」による呪縛からの、解放でした。そして、経験を通じて確信したことを、真理と認めることでした。人間の心理の真理を、まともに認めることで、偽善を、絶対悪と感じる偏狭さからも、解放されました。私の中の人間の革命でした。私の後半生における、ある程度独創的な生き方が、可能だったのは、この革命のおかげです。
【革命を可能にしたもの】
この革命を実現できた要因が、二つあります。第一は、自費で私用旅券で、Prahaに出張したことです。当時公用旅券では、絶対に認められなかった、ソ連東欧圏の一人旅が、出来ました。しかしこの3週間の旅が、私の中の人間革命になったのは、私が思い違いをして、軍事要塞国家の荒々しい滝壺に、一人で飛び込んで、一人でもがいたため、ソ連社会の真実を、身にしみて感じることが出来たからです。これは、私が、ロシア語に自信があったから、立てた計画ですし、ロシア語が十分だから、わかった真実でもあります。そのロシア語は、10年前、学部学生の時、週3回2年間、白系ロシア人から習ったものでした。本物の革命とは、このような過去の十分な準備があって、可能になるものと思います。
(Apr. 13 Jim Nishimura)