なぜ南部が若くして、現在の標準モデルのオリジン(源流)となる仕事ができたのか、その独創性の特質について、2回にわたって考察してきました。最後に、南部の独創性と読者の心の中にある独創性とが、直接つながりをもてるよう、手助けをします。南部の独創性を支えたもの、すなわち大事な場面で、南部が下した決断と行為、それをささえた精神について考察します。キーワードは 「手作りの物理世界」、「行為の純粋性]、「世界人」、「世界文化思想」です。 |
Part 1 独創の秘密 8年間のトンネル
周囲で気づく人はいなかったかもしれませんが、南部が一人の新しい天才の出現を確信させるような二つの処女論文を発表して研究をスタートさせたのは1948年でした。
しかし、その南部が現代素粒子論の源流とみなされるNJL(Nambu-Jona-Lasinio)論文を発表し、天才であることが世界に認められたのは1960年のことです。この間に12年間の不発期間があります。"空白期間''といわないのは、南部にとってそれは空白どころではなく、最も真剣に頭を振り絞った期間だからです。この間に散発的に発表した論文は3〜4通でしょう。ものすごい努力とまったくの不発のコントラストです、でもここに南部の独創性の秘密がありそうです。もし南部がこの期問に毎年1〜2報ずつ全部で20報の論文を書くほどに生産的であったなら、NJL論文は出なかったでしょう。
この12年の不発期間は、くわしくいえば最初の4年の楽しく明るい不発の期間とそのあと8年の出口の見えないトンネル期間に分かれます。この両方ともが南部の独創性にかけがえのない必要性をもったと思いますが、特にわれわれの関心をひくのはトンネル期間です。南部を8年間のトンネルにしばりつけたものは何か、それを個人史にもとづいてくわしく調べることによって南部の独創性の秘密に迫りたいと思います。
まずこの12年間の南部の研究場所とポジション(身分、地位) について述べます。1949年、大学院特別研究生だった南部は、東京大学物理学科の助手になりました。
これは南部の実力が大学に認められての昇進ではなく、南部も加わって特別研究生が一致団結して、学科に助手への昇格を要求して勝ち取ったものでした。
学科としては、力に押されて認めたわけですから、講師、助教授への昇格はなしという条件がついていました。
研究者にとっては、ひどい就職難の時代ですから、南部がどこかの大学の講師、助教授の地位につける可能性はまったく見えなかったと思いますが、運よくマッカーサーの命令で新制大学制度がスタートしました。それまで大学といえば、東京大学、
京都大学、大阪大学、九州大学、 東北大学、北海道大学などの旧帝国大学のほかは、東京工業大学など数校にすぎなかったのに、各都道府県すべてに大学をつくることになったのです。その多くは旧制の高等工業学校と師範学校からの昇格でした。
大阪では大阪府立大学と大阪市立大学の二つがつくられました。このうち、大阪市立大学の理工学部は専門学校からの昇格ではなく、 まったくの新設でしたので、各大学で安定した地位のなかった人たちが100人以上スタッフに迎えられました。
その中には, 井本稔(有機化学)、 吉良竜夫(生態学)、 梅樟忠夫(文化人類学) などきら星のごとく逸材がいました。 東京大学からも
朝永の推薦で 南部のほか、 早川幸男、山口嘉夫、西島和彦の4人がスタッフに入りました。
大阪市立大学に職を得たころが南部にとって研究上も生活上も最もよい思い出の時代だったと思います。やっと奥さんと一緒の生活が可能になり、アルバイトの必要がなくなり、開設したばかりの大学なので授業がなく、やっと研究にだけ没頭することができるようになったからです。それに同僚が豪華でした。南部教授、早川助教授、山口講師、西島助手、それに大阪大学からきた中野董夫助手がいて、いつでも討論しあえた物理研究室は、その雰囲気と実力において世界最高の素粒子論グループだったと思います。
このグループの研究の舵取りをしていたのは疑いもなく情勢判断能力の高い南部でした。そして南部グループが徹底した注意を向けたのは,ちょうどそのころ発見されたV粒子です。これについては南部の著書『クォーク』に特別に熱のこもった解説がありますので見て下さい。V粒子のあとは,続々と新粒子の発見が続く時代に入りますが、南部のグループはつぎつぎに見えてくる新粒子を最先端に立って研究することになりました。現代素粒子論の基本となった発見のうち、最重要の一つが中野一西島一ゲルマン則(Gell
Mann-Nishijima relation)であることは疑いありませんが、それが南部グループから出たことは自然で当然なことだったのです。
この発見がすごいのは、これからquarkの存在が論理的に導かれるからです。そのくらい重要な発見ですが、これが発見された1953年には、南部はすでにプリンストンで、グループにはいませんでしたから、この発見には彼の名は入っていません。この関係式は南部グループから3年遅れてGell.Mannに発見されました。それなのに、これがGell-
Mann-Nishijima relationで通るのは、この発見の論理的帰結であるquarkの存在を主張したのはGell-MamとZweigであって、南部グループからは素粒子の常識に反する決定的主張は出なかったからです。「1/3の電荷が基本粒子ではありえない」と頑強に拒否する湯川が頂点にいた日本では無理なことでした。「数学的論理」より「哲学」というドグマのほうが上位だったからです。
でももし、この関係式を発見する中心にいたのが南部だったらと想像します.南部なら湯川に遠慮することなく数学的論理の導くままにquarkの存在を主張しただろうと思います。つまり南部がquarkの同時提唱者になった可能性は高いのです。私がその想像を強めた一つの理由は、Gell-Mamの南部に対する異常な警戒心を彼の著書The
Quark and the Jaguar (邦題:クォークとジャガー) の中に発見したからです。そこでは、対称性の自発的破れとヒッグス機構を語りながら、南部の名前はいっさい現れません。私はここに南部のノーベル賞を妨げ続けた人々の一端をみた気がしました。米国の学会の厳しさです。
若さと光に満ちたこの牧歌的時代は、南部の米国行きにより3年で終わり、再び戻ることはありませんでした。
1952年, 南部は念願かなってオッペンハイマー(J. R. Oppenheimer) が所長をしていた米国プリンストン高等研究所(Institute
of Advanced Study: IAS) に招かれ本格的な研究生活に入りました。彼が迷わずに取組んだテーマは素粒子ではなく多体問題でした。特に多粒子系の挙動を相互作用を取組んだ集団運動とその結果遮蔽を受けた個別運動に分けることができるというボームーパインズ(Bohm-Pines)理論で、素粒子の基本問題を扱うことでした。
でもこれは、出口の見えないトンネルヘの人り口でした。2年間、南部が必死に頭を振り絞りましたが、なんの結果も得られませんでした。競争の激しいプリンストン高等研究所の中でこれは完全な敗北とみなされました。そのとき、失意を抱いて帰国するが普通ですが、南部には敗北感はなかったようです。自分の手で出口を見つけるまでは帰れない帰らないと思ったようです。
当時、米国に残って研究を続けられるチャンスはほとんどありませんでした。特にプリンストン高等研究所で仕事が成功しなかった南部には難しいことでした。でも、シカゴ大学のフェルミ研究所の主任だったゴールドバーガー(M.
L. Goldberger)だけは、プリンストン高等研究所で会っただけの南部の才能を評価し、シカゴ大学にポスドクとして来るように誘ってくれました。唯一の誘いでした。
こうしてシカゴ大学に移った南部は、2年後には助教授になり、シカゴ大学の物理学科の教育と研究の中心的存在になってゆきました。
しかし1954年から1960年までのシカゴ大学での最初の6年間もやはり出口が見つからないトンネル区間でした。その原因は、南部が相変わらず多体問題としてのアプローチに固執したためといえるでしょう。でも同じことをやり続けたのではありません。結局は1960年、NJL論文として出口を見いだすのですが、それをみると、多体問題とはいいながら、研究の目的も内容もプリンストン高等研究所で研究を始めたときとは大きく異なっています。
当初はスピンと軌道角運動量の干渉の機構が一つのテーマで、原子核の密度に上限がある理由の解明がもう一つのテーマでした。しかし8年後の出口のテーマは素粒子に質量を与える機構でした。
研究の注目分野、内容、方法も大きく変わっています。当初はBohm-Pinesの方法でのプラズマ振動の第二量子化のような仕事が主だったと思いますが、1957年のBCS論文の出現後は、Feynman
Diagramの方法による超伝導現象の多体問題としての解明が中心になっていきます。そ の結果、8年間、素粒子論研究の最先端にいた南部が超伝導と素粒子の基本における類似に気づき、そこに出口を見いだしたのは当然といえるかもしれません。
これは実に大きな発見でしたが、風呂の中で突然気づき「ユーレカ(我発見せり)」と叫んで世界中の素粒子論研究者を驚かせたというような劇的な話ではありません。はるかに地味だがはるかに教訓的な話です。
想像するところ、南部はすべての物理の世界を自分の頭で理解し、納得しようとします。より正確にいうと、南部の頭の中には、南部がすべて自分の手でつくり上げた「物理世界」という建造物、形容すれば
"法則という鉄骨で、事実という重い荷重を空高く持ち上げた建造物" があります。このうち大事な鉄骨には、教科書に出ている法則を使っていますが、あとは荷重を支えるのに必要なルールを自分で発見し、鉄骨として使っています。このように自分でつくった自分だけの「物理世界」をつくる物理学者にはファインマン(R.
P. Feynman) がいます。彼は非常に個性的なので、彼のつくった物理世界はすぐFeynman世界とわかります。Feynman
に比べ、正統的に見えるので、そう思われませんが、ランダウ(L. D. Landau) も世界を全部自分でつくった人でした。その友人のガモフ(I.
Gamov) もそうです。この三人は自分の物理世界を本にしていますからよくわかります。ほかにこのような物理学者は少ないのですが、挙げるとすればべ一テ
(Bethe)と南部でしょう。
こういう物理学者が強いところは、何しろ自分でつくった家の隅々まで知っているので、どんな問題に対しても多様なアプローチと見方が可能なことです。これが理論的創
造にとって非常に重要な点は、何しろ物理世界は理論の構築物ですから、どんなアプローチを取っても同じ結果に到達しなければならないことです。もし一致しないならば、理論構造内部に正すべき欠陥があることを示しています。つまり理論創造には、自分で築き上げた物理世界をもっていて、いろんなアクセスルートを縦横に比較検討できる人が圧倒的に有利なのです。
BCS論文を読んだとき、それを自分の物理世界に取込むのに南部が行ったことは、Feynman diagramを使った多体問題としての定式化でした。その概要はMattuckの「A
Guide to Feynman Diagrams in the Many-Body Prob1em」に出ています。このように南部流の取込みをしてみて初めてCooper
pair bosonをつくる機構を深く追求することになり「対称性の自発的破れ」がキッカケになることに気づいたのでした。これに気づけば、これが、それまで南部の物理世界の中で未解決のまま残されていたケ中問子に質量を与える間題と結びつくのは容易だったと思います。
ちょうどそのころ、イタリアから来た若い研究者ジョナ・ラシーニョ(G.Jona-Lasinio)と議論しながら完成したのがNJL論文です。この最初の発表は、息子さんの重い病気で南部が出席できなかったので、Jona-Lasinioが行いましたが反響はまったくなかったようです、その後、南部自信が発表しましたが、固体論の人が少し興味を示しただけで、素粒子論研究者はまったく興味を示さなかったといいます。その潮流が変わったのは、南部の発見の重要性に気づいたゴールドストーン(J.
Goldstone) が、その発見を拡張したNambu-Goldstone bosonを考え、広くその重要性を強調した論文を1年後に書いてからです。火が着くまでに2年かかったということです。
南部のあの大きな独創の秘密は天才にも不毛の空白期があったと評される8年間のトンネル区間にあったのです。
Part II 8年間のトンネルを支えた
行為と好意
大きな独創に十分なトンネル期間が必要なことは一般論としては誰も否定しないことですが、現実には3年無音であれば、管理者から警告を受け、5年無音であれば助教授なら解雇、教授なら辞職勧告を受けるでしょう。それは日本でも米国でも常識として受け入れられています。こういう不文律の中で、南部の8年というのは、50年前のことにせよ、「あっぱれ」なことだったと思います。「あっぱれ」とは、
8年間の無音は、認められる一流レベルの論文が書けないからの無音ではなく、自分が決めたレベルの論文が書けないから自分で決めた無音だからです。
8年間のトンネルがあったから南部の独創性が可能だったのは上にみた通りですが、逆からみると南部だから8年間のトンネルが可能だった。ほかの誰もそれはできなかったろうと想像されます。なぜ南部にはそれが可能だったのかをつぎに考えていきます。
8年間のトンネルを少し丁寧にみていくと、「よくここでつぶれなかったな」「よく運よく幸運が訪れたな」「よくその決心がついたな」と恩うことの連続です。トンネルとわかっていても進もうという決断とそれを支える好意ある助力の連続です。最初の決断はまったく何の成果も出ず2年間のプリンストン高等研究所での滞在が打ち切られたときだったと思います。もしこのとき、失意の念が強かったり、留守を頼んだ同僚への義理や迷惑の気持ちが強かったら、すぐ帰国の道を取ったでしょう。でも南部はそうせず、当然のように米国滞在を決め、居をシカゴに移して、滞在可能なポジションを探しています。プリンストン高等研究所の2年間に実績がないのでどこからもオファーはありませんでしたが、シカゴ大学フェルミ研究所の主任のGoldbergerだけが、研究員のポジションの提供を申し出てくれて、さらに2年間ポスドクとしての研究滞在が始まります。
この2年間、南部は多体間題としての原子核の研究にこだわり続けましたが、やはり成果は出ませんでした。そのかたわら中間子のdispersion(分散)を研究していたGoldbergerを助けて一緒に仕事しました。これは成果にはなりませんでしたが、南部が素粒子に戻るキッカケを与えただけでなくGoldbergerに南部の実力を確信させる機会になりました。そのため、2年のポスドクが終わったとき、Goldbergerは南部に助教授としてシカゴ大学に残って、物理学科の中心メンバーになることを提案してきました。3?4人のローテーションで物理の全分野をカバーするコース授業の一員ということです。このときが南部にとって第二の決断でした。日本に帰る気が少しでもあるなら最後のチャンスでした。一方、コース講義担当は学生の評価の厳しい米国では、日本人は頼まれないし、やれそうもない仕事です。でも南部は引受けました。それが非常に成功したようで、2年後の1958年、Goldbergerがプリンストンに移るとき、南部は後任の教授に任命されています。
こうして、1960年にはNJL論文を発表し、2年後には、南部は一躍注目されるのですが、これと時を一にして、嫌な間題がもち上がりました。1960年から始まったベトナム戦争の影響です。このとき、
日本ではべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)などアジア人の反米感情は一挙に盛り上がりました。私も戦争集結まで米国留学を拒否したほどです。逆に米国では、反アジア人感情が高まりました。他人の国に土足で踏み込んだという認識がない米国庶民が自分の息子がゲリラに捕まって非人道的虐待を受け殺されたと怒ったのです。南部の仕事が認められだした1963年ころは、ちょうど反アジア人感情の高まりからくる
"Asians Go Home" の声のすさまじいときでした。このときが第三の決断のときでした。
学問が政治に影響されることを極端に嫌う南部は、始まったばかりの研究を発展させるためどうしても米国に残ろう、そのためには米国市民権を取ろうと決心したと思います。しかし狂気に近い反アジア人感情の中で、責任ある地位にいる人で全面的に南部を保証してくれる人を二人探
す必要がありました。大変困難と思われましたが、同僚教授と学部長が、それを引受けてくれて、南部は研究生涯の最重要な時期に念願通り研究を続けることができました。
Part III 南部の姿勢を支えた精神
独立心、自負心、行為の純粋性
南部の独創の秘密基地であったトンネルを支えた行為と好意を知りました。これは南部が生きた姿勢を伝える映像ではありますが、南部の独創性から学びたい人にはこれだけではもの足りないと思います。それはあくまで南部に関する個々の事実であって、読者の心の中にある独創性とは直接につながらないからです。それをするには、南部の独創を支えた行為について、南部にそうした行為をさせた南部の精神について読者が自分自分で考えてみる必要があります。この論考の後半は、読者のそのような考察のための手助けをしたいと思います。
南部の精神の根幹は、人にもグループに追随することを嫌うきわめて強固な「独立心」であることは誰の目にも明らかでしょう。それが単なる願望ではなく、貫き通すのが南部ですが、それを支えているのは、自分ならできるという「自負心」であり、それを人に納得させるだけの「行為の純粋性」であるというのが私の解釈です。
1. 南部を支えた自負心
ここで「自負心」といって「自信」といわなかったのは、自信は勝てば生まれ、負ければ失われるものですが、自負心は負けてもなお自分を信じられる確信だからです。プリンストン高等研究所の2年間での完全「敗北」でもそれに続いて6年間での無音でも南部は自信を失っているようにはみえません。多体問題の研究に自信を失ってテーマを変えるようなことをしていません。これを南部の自負心と呼んだのですが、それがどこから生まれたかです。
研究の場合、能力とは問題解決能力と状勢判断能力です。このうち情勢の展望と判断については南部のずば抜けた能力があることはすでに指摘しました。特に専門家の間では圧倒的評価を得ています。この高い展望能力がどこから来るかですが、
私は、南部がFeynman、Landauと並ぶような手づくりの物理世界を築いているからだろうと思います。彼にかなう人は日本にはまったくいないし、世界でも多くはいません。このことは、南部自身がわかっていてそれが自負心につながっていると思います。
これに対して、間題解決能力のほうは 客観的評価ができるはずのものですが、現実には、人は自分の能力以上の能力を評価できませんから、南部のような並外れた能力は気づく人がいないし、無視されます。その中で自分の能力を客観的に評価しようとすれば、一つしか方法がありません。絶えず自分以外を厳しく評価することで客観的評価能力を高め、その一例として自分を取上げて見る態度です。他を厳しく見ることを通じて自分を厳しく見る方法です。南部の場合は多分この方法だろうと思う理由があります。30年も前、私が南部の追っかけを始めたころ、南部が日本に帰って来たとき、ひとめ会って話を聞きたいと南部の後輩の物理学者に頼んだことがあります。そのときの彼の言葉は「南部さんに一人で会おうとする物理屋はいません。みんな恐がってます」でした。物理屋は瞬時に頭の中が見透かされることがわかるので恐いのでしょう。
でも客観的だが厳しい評価だけでは「自信」と「活力」にはつながりません。無理解ばかりの海を航海しているとき、たとえ一つでも本当に理解してくれる評価に出会えば、すごい元気を与えられるはずです。南部の天才を理解し評価する人が周囲に一人もいなかったかけ出しのころ、南部の天才を認めた物理学者が3人います。伏見康治、渡辺慧、武谷三男の三人です。
伏見康治は南部の天才をはっきり認めた最初の人です。若い南部がOnsanger論文の別解を出したことを聞いて、すぐにその仕事のすごさに気づき、論文発表をすすめたのは伏見でした。南部も初めて会った伏見のことを
"brilliant"と形容しています。その頭の働きに「まばゆさ」を感じたのでしょう。
渡辺はプリンストン高等研究所へ留学する際に必要だったOppenheimer宛ての推薦状を南部のために書いた人です。渡辺は戦前私費でヨーロッパに遊学し、はじめド・ブロイ(D.
L. Y. de Brog1ie) に、あとでハイゼンベルグ(W. K. Heisenberg) に師事した人で、量子論と相対論と熱力学の深く正確な理解でこの人を超える人は、世界にもいないと思える人です。ヨーロッパでたくさんの天才とつき合った渡辺は、すぐ南部の天才を認めたと思います。
武谷は「三段階論」という実践的哲学を創始し、素粒子論ばかりでなく、技術論、原子力政策を通じ戦後日本の科学技術に最も強い影響を与え続けた巨人物理学者です。この武谷が頭脳流出が深刻な問題として騒がれたころ、新聞に出したコメントを憶えています。「流出が間題なのは物理の南部と数学の志村の二人ぐらいだ。あとは出ていってもどうってことはない」でした。
話し好きの武谷は、敗戦直後、南部がまだ物理教室に寝泊りしていたころ、友人の中村誠太郎を訪ねたあと、よく南部を訪れて、話し込んだようです。年は10歳違っていましたが、互いに相手に興味と敬意を感じていたからでしょう。個人史の中で南部は何度か武谷のことに触れ、影響を受けたと語っています。ただし、武谷の本から学んだ言葉を
教条として覚えて影響されたのではなく、彼と親しく話すうちに彼の考え方が身につき問題にぶつかるたびに、彼ならどうアドバイスするだろうかと想像できたようです。
2. 行為の純粋性
人の行為を決める要素には「スジ」と「損得」の2面があります。人の行為を決めているのはこの二つの面へのウエイトのかけ方なのです。組織内部で幹部の不正を知ったとき、それを発表し、追及するのがスジですが、損得を考えればまずやりません。でもそれは家族の生活に責任をもつ者の決定としては非難されるべきことではありません。社会正義のためと思った行為によってクビになっても誰一人面倒は見てくれず、結果の責任はすべて白分が負わねばならないからです。そうはいいながらウエイトの配分は人によって大きく違います。「スジ」へのウエイトの配分を行為の純粋度と定義するなら純粋度は個人によってはもちろん社会によっても違います。
日本社会は大ざっぱにみれば純粋度が高いとはいえません。たとえば行列への割り込みは欧米ならすぐ必ず注意されますが、日本ではかかわり合いを避ける人が多く、見過ごされます。電車内での暴行事件でも同様です。
私は突然暴行を受け、立ち向かったことがありますが、すぐ脇に立って守ってくれたのはアメリカ人でした。車内の男性はみんな知らん顔でした。このように日本では純粋度の高い行為は、「大人気ない」「カッコウつけやがって」とマイナスの評価になります。あるいは「損な生き方」と同情されます。
南部の個人史を読んでまず結論できることは、行為の純粋度が非常に高いことです。行為はスジに従って行い、損得の判断によって影響されることはないようです。大学院特別研究生の助手への昇格を要求し、学科主任とやり合ったときも、みんなの中心にいました。それをすれば、助教授への道が絶たれることは、見えていたと思いますが、それを考慮した気配はありません。
Lamb Shift 論文でも、「純粋に事実に忠実であれ」という原則からメFo11owing Bethe..."と入れたのであって、朝永に配慮して入れないほうがよいかもしれないというような迷いは一切なかった
と思います。
南部の純粋さのもう一つの現れは, 権力者や主流派の人々に近づかないことです。よく人がやるように適当な口実を考えて近づき、親しくなるようなことはしていません。損得のためにスジをつくることなど自分に許せなかったのでしょう。物理学科の権力者だった長岡半太郎とは話していません。尊敬できなかったのでしょう。2年先輩で、物理学科のエースとして特別待遇だった久保亮吾とは戦後部屋が隣で、研究分野も同じだったにもかかわらず、まったくつき合っていません。つき合うのに必要なスジを認めなかったのでしょう。こう見てくると東京大学物理学科で西島和彦を呼び戻す話は出ても南部を呼び戻す話は出なかったと思います。
南部の純粋さのもう一つの現れは「政治的な働き」への嫌悪です。政治とは社会正義のようなスジを表看板にしながら自分たちのグループの利益を図る行為とみているからでしょう。穏やかな社会主義者である南部は、マルクスやエンゲルスからは学んだところが多いと思いますが、「レーニンは嫌い」といっているのは、そのためでしょう。また坂田昌一を有能な物理学者と認めながら、日本の物理学をダメにした元凶のように嫌っているの、その
「政治性」 のゆえでしょう。
3. 純粋が呼び寄せた助力
極端な純粋は、下世話には「下手な生き方」で、 独創にとってもマイナスになると思われています。でも南部をみるとこれは大事なことを見落としていることに気づきます。南部のような長いトンネルを支えるには強力な助力が必要なのですが、それがどこから来るか考えてみる必要があります。「成功には運が必要」といわれると、助力は大当たりの宝くじや、狙って当てられるゲームのように思いがちですが、そんなものではありません。特に助力の最大なものは長期にわたる無条件のポジションの供与ですが、それは自信をもって南部の天才を認め、そうするのがスジだと純粋に確信した人間にだけできる決断です。その純粋さが問題なのですが、それは南部の純粋さが招いたものと思います。人と人とのつき合いにおいては、純粋な者だけが純粋なものを招き寄せることができるからです。
問題はオファーを受けての南部の対応です。1956年、助教授のオファーを引受けることは、日本への帰国の道を自ら閉じることになりますが、この時点で南部が悩んだとは思えません。物理コース講義担当の助教授になることは、Fermi以来の栄えある教授団の一員になることで、世界人である南部はちゅうちょなくこの道を選んだと思います。南部が非常に悩んだとすれば、1963年ごろ、さきに述べた事情から、日本国籍を捨て、米国市民になることを選んだときだと思います。それまでも研究態度が米国寄りだということで、素粒子論グループから相当悪く言われてきたうえに、ベトナム戦争のため反米感情が非常に高まった時期ですから、日本での破滅的評価は予想されました。でもそれを乗り越えさせたのは、世界人としての意識に支えられた純粋判断だったでしょう。
4. 南部を青てた「世界文化」思想
たびたび使った「世界人」は「国際人」とは違います。すなわち,「世界人」は世界共通の文化である「世界文化」の中で育ち、さらに自らの力で世界文化を築く意識をもった人の意味です。 国際人との違いは国際文化というものがないことに気づけば明らかでしょう。この「世界文化」の思想は、全世界が国粋的なファシズムの跳梁の脅威にさらされた1930年代、世界の知求人=知的探求人
に共有された理性の思想でした。国粋主義の強かった日本では、かえってこの思想は知求人を強くとらえました。自分たちの力で世界文化を築くという気概と自信に満ちた仕事が各方面でなされました。軍事技術と重工業技術は
材料に問題がありましたが、設計では世界トップでした。理論物理学、理論経済学でも歴史学でも自力の仕事が世界を抜くようになりました。これが1930年代の日本の知求人の文化です。南部の父親はその中にいて南部を育てました。この日本の「世界文化」に急なブレーキをかけたのは無謀な戦争への突入です.
そしてその精神を含め、それを完全に壊したのは無残な敗戦です。敗戦後に残ったのは「世界文化」ではなく「アメリカ文化」でした。
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【付言】本論考と南部博士との関係
論考は南部陽一郎博士を対象に公開文献だけを資料にして行った私流の研究です。原稿完成まで博士とお会いしたことも連絡したこともありません。したがってここで書かれたことについてすべての責任は私にあります。
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