Part I 物理の勉強と最初の仕事
1. なぜ最初の研究にこだわるか
「独創的に生きたい」と思ってこの論考を読む若い読者にとつて関心があるのは、若いときの南部,研究の道に踏み込んだばかりの南部,自分を待つ世界が一切見えず、見えるはずもなかった南部でしょう。その南部はその時点ですでに一人前の研究者であったといわれていますが、それがどうであったのか。南部が大学卒業後初めて書いた研究論文と周囲の状況も含めて丁寧に調べることによって、南部の独創性の秘密に迫りたいと思います。研究者の生涯の仕事はその処女作の中に萌芽的な形ですべて含まれているともいわれるからです。
最初の研究というと卒莱研究ということになりますが,南部が出た東京大学の物理学科には,昔も今も卒業研究の制度はありません。南部が卒業した1947年ごろは卒業するとすぐ一兵卒として召集され,戦争に投入されました。ただし理科系で成績優秀なものには、技術将校になり戦場に出ないですむ道が残されていました。南部はどういうわけかこの遣をとらず、一兵卒として軍隊に入りましたが,運よく前線に出ることをまぬがれ、1945年8月の敗戦で,東京に戻って来ました。
東京に戻ったあとは2?3年は大学に住んでいました。まったくの焼野原になった東京では,ほかに寝る所がなかったからです。寝るといっても着の身着のまま、研究室の机の上でした。身分は、大学院特別研究生とよばれていましたが、これは就職できない人にわずかな手当てを払うための名前であって、大学院の講義などはまったくありませんでした。南部の仕事はこんな中で始まりました。
2. 敗戦直後の2年間
敗戦直後2年間の空腹と無法とみじめさは, どんな意味でも今の人々の想像を超えたものです。ヤミ食糧の売買は厳しく罰せられたのに、法律に忠実にヤミ食糧を食べなかった裁判官は餓死しました。人々は食べるためだけに全部の頭と体を使っていました。私の場合,
外地での敗戦後は、盗みと乞食だけで、1年間生き抜き、日本に帰って来たあとは1年間は、まったく学校に行かず,非合法製塩をして生きました。この2年の空白に目をつぶって受入れてくれたT
学園にも、授業料と寮費は非合法の塩で払いました。
こんな状況の中でこそ、人の生きる姿勢の本音があらわれるのだと思います。そして、そこであわれたわずかな違いが、後年、決定的な差になってあらわれるのだと思います。朝永は、敗戦直後の極端な混乱期に、理研彙報発表論文を正確に英訳し、1946年の
Progress of Theoretical Physics誌の vol.I, No.2 に発表しています。食糧がなく、創造的仕事をするだけの気力がなかったので、翻訳をしたと語っていますが、この時期のこの努力こそが、ノーベル賞を引き寄せるのに決定的だったと思います。
軍隊から帰った南部は、この時期,奥さんのいる大阪では暮らさず、職もないのに東京大学の研究室に住み込み、生活をしています。給料なしですから相当時間は、アルバイトとヤミ食糧調達に費やしたのでしょうが、それでも研究室に住んでいるのですから、徹底して物理の勉強に集中したと思います。私の経験では、空腹もそれを助けたろうと想像します。私の場合は学校に行かなかった2年の空白を半年間の寮生活の間に取戻せましたが、そのおもな理由は、配給食糧だけの寮の食事からくるたまらない空腹を忘れるには、必死の勉強への集中しかなかったからです。極端な空腹に耐えるには精神的な間題に精神を集中させることが一番であり、それが勉学には非常な効果があるからです。
ただし、極端な精神集中を数週間、数カ月と続けるためには、絶えざる刺激が必要です。刺激として一番よいは、斜め上の人との対話です。斜め上とは、師弟とか先輩とかの上下関係ではなくて、実力では上の人という意味です。南部はこのとき、まさにそういう人に恵まれました。たまたま同室だった岩田義一で、物理学科の講師でした。南部はこの人とは朝から晩まで、物理の議論をしていたようです。素粒子論の道へ導いてくれたのはこの人だと、南部は語っています。物理以外のことも、岩田さんに習ったと言っています。すごく教養豊かな人で、そのころ、古典ギリシャ時代の原子論者ルクレティウスの詩を、ギリシャ語から訳して、本を出したといいますから,世界文化という思想をもった人だったのでしょう。まさに南部にぴったりの「斜め上の人」だったと思います。
3. 岩田講師と最初の研究論文
南部は、この時期2年ほどの研究室泊まり込み、集中、対話を通じて、後年の南部を支える基礎実力ができたと思います。当時の南部の実力と岩田の導き方の的確さを実証するのが、南部の最初の仕事です。それは「2次元イジング
(Ising) モデルの 厳密解」の仕事です。Isingモデルは、磁性体の自然なモデルですが、1次元に適用すると、強磁性体の特長である自発磁化があらわれません。その理由がモデルにあるのか、1次元近似にあるのかに決着をつけるため、多くの人が2次元Isingモデルに挑戦しましたが、誰一人成功せず、難攻不落の城とされました。ところが1944年、オンサガー(L.
Onsager) が、完全な解を得るのに成功し、彼がノーベル賞を得る大きな要因になりました。
この仕事が、物理学者の間で特別に関心をひく理由は、Onsagerの解法が、きわめて抽象的な数学を用いたもので、ほとんどの物理学者はついてゆけない難解なものであること、それなのに最終結果は、自由エネルギーで表して、驚くほど単純で、美しいからです。
Onsagerの論文は1944年 Physical Review誌に発表されましたが、戦時中ですから日本では知られず、数冊のPhysical
Review誌が日本に入ったのは戦後です。統計力学の仕事ですから、久保亮五とその弟子たちには重大関心事だったはずですが、ほかには、あの混乱時に、この難解な論文に初めから取組んで、理解しようとした人がいるとは思えませんでした、でも岩田と南部がいたのです、久保とは距離を置き、久保とも弟子たちとも付き合いがなかった南部が、この論文を知り、さらにIsingモデルについて学んだのは、岩田からです。二人はこの論文を完全に理解した上、南部は、同じ最終結果に達するまったく別の解法を見いだしたのです。
これは南部の実力を示す大変な仕事です。久保のような統計力学の専門家の頭を完全に抜く仕事だったからです。でも南部はそれを発表しませんでした。数学的美しさに魑せられてやってみたら、難なくできてしまったので、それほどの仕事と思っていなかったからかもしれません。それ以上に、これは解法に過ぎず、物理学としての意味を感じなかったためかもしれません。でも2年後、統計力学の伏見康治大阪大学教授に初めて会ったとき、この話にふれると、ぜひ論文にするように強く勧められ、それに従っています。(1948年発表)
最初の仕事にまつわるこれらのことから南部の独創性の特長ある性格が浮かび上がってきます。一つは数学と物理の両面性です。南部は数学が非常に得意で、特にその美しさを好みますが、一方で、物理としての意味に非常にこだわり、数理物理に溺れることに強い抵抗を示します。もう一つは、本格的多体問題への関心執着です。場の量子論は、もともと多体間題に発していますが、素粒子を研究する人の、物性論や統計力学への関心は、そこそこです。これに対し、
南部は最初の仕事が統計力学であったばかりでなく、その後も深い関心執着をもっていました。 南部が超伝導のBCS論文にいち早く着目したのもここにルーツがありそうです。
Part II 最初の本格的研究
1. 朝永ゼミと第二論文
湯川秀樹は、ノーベル賞受賞(1949年)以前から国内では、圧倒的な評価を得ていました。戦争中(1943年) に、最年少で文化勲章を得ています、京都大学は、この湯川を1939年に教授に迎え、新しい物理学の研究態勢を固めました。東京大学で南部の同級生だった林忠四郎は、大学院は京都に移り、湯川の最初の弟子となっています。これに対し、東京大学の物理学は、寺田寅彦流の「趣味の物理学」や寺沢寛一流の「教師の物理学」の色彩が強く、「場の量子論」のような新しい物理を受け入れる姿勢が、まったくありませんでした。京都大学の湯川に対し、同格の朝永を東京大学に迎えるべしの声が当然あったのですが、物理学科内部の強い抵抗で実現しませんでした。その緒果、朝永が東京大学で講義できたのは、1944年の卒業生に対してだけで、この中に、木庭二郎、福田博、宮本米二、早川幸男など朝永グループの主要メンバーが、全部そろっています。もし朝永が早く東京大学に迎えられ、長く学生を指導していたならば、東京大学もその卒業生もまるで違っていたろうと思います。
敗戦後、朝永は東京文理科大学 (筑波大学の前身) で物理の研究を再開しました。そして理研彙報に発表した超多時間理論をべ一スにして、実験と比較できる具体的な成果を出すために朝永ゼミをスタートさせました。膨大な計算
(主として積分計算) を実行する多くの協力者が、毎週集まりました。参加者は、田地隆夫ら東京文理科大学からの数名を除き、主力は木庭,、福田、宮本ら東京大学で朝永の講義を受けた学生たちでした。
南部は1942年卒で、その直後から敗戦まで軍務に服していたため、1944年の朝永の講義を聴く機会はありませんでしたが、東京文理科大学での朝永ゼミには初めから参加しています。もちろん主要メンバーであった後輩の木庭たちに誘われたのだとは思いますが、多体間題が主要関心事南部が熱心に参加したことに、南部の姿勢を感じます。それは、視野に入る全分野を正確に理解しておきたい。そのためには徹底した勉強しかないということです。そのためかもしれませんが、南部は計算を担当する協力者にはなりませんでした。南部の性格上、グループ仕事の分担者になる気はなかったのでしょう。朝永と直接に話すこともしませんでした。いつも参加者の一番後ろの席で議論を聴いているだけでした。
この時期に書かれたのが、南部の第二の研究論文です。その題名は 「ラムシフト(Lamb Shift)と電子の異常能率の計算」で朝永ゼミのテーマそのものです。ところがこの論文は、南部単名の論文で、共著として朝永の名はありません。その理由は、朝永たちのグループとは別の方法で、
南部一人で計算したものだからです。しかもその論文は。ノーベル賞受賞の対象となった朝永らの論文よりも早く完成し、3ヵ月早く同じ雑誌に出ています。朝永の業績の中にこの論文が加えられることはないため、知る人は少ないですが、この第二論文こそが、物理学者南部の最初の発表論文です。この論文の内容と、それがこの形を取る事情の中に、南部の独創性の特質が発見できるはずですが、そのためには、この研究をとりまく当時の事情を知っておく必要があります。
( 付録の「 第二論文の背景: Lamb Shift とその理論計算」 を参照してください. )
2. 本当は天才の出現だった第二論文
むかし、ハリウッド映画のお得意の筋書きの一つは、町をおびやかす怪物に、誰も手が出ずに困り果てているところへ、どこからか素性の知れない若者が現われ、「ちょっと貸してみて」と借りた武器で、見事に怪物を仕留め、あとは誰も知らないうちに、去っていくという話でしょう。こんな話は現実にはないからこそ、好まれるのでしょうが、芸術の世界では、時に起こることがあります。カラヴァッジョ
(Caravaggio) のような天才の出現です。科学の世界でも天才の出現は、そういうものです。アインシュタイン (A. Einstein)
の特殊相対性理論の出現が、その例です。みんなが長年困り抜いていた問題に、何の経験もない若者が、突然に完全な解答を出すのが天才出現の意味ですが、芸術と違い、地道な実力の蓄積を必要とする科学では、Einstein後そういうことは起こっていないように思われています。でもそれは、粗雑な目で、ものを見ているからで、もう少し精密正確な目で研究の展開を見てみると、Einstein後も若い天才が、突然出現するドラマがありました。大学院学生の最初の仕事がノーベル賞という例として、トホーフト(G.t'Hooft)がいます。大学院生天才の出現のもう一つの例は、第二論文を携えて現われた南部陽一郎です。このことは、今まで誰一人言及したことはなく、今回私が、Lamb
Shift に関係する原論文を、すべて丁寧に読む中で気づき、確信をもった結論です。
南部の出現をハリウッド映画にたとえると、舞台は朝永が主宰する「朝永ゼミ」です。ゼミでは朝永の指揮のもと、約10人の協力者が、朝永の超多時間理論を検定するために、実験と比較できるLamb
Shift 計算値を出すべく、膨大な量の計算と格闘していました。計算といっても正準変換、Fourier変換、その上での積分と、技巧を要する解析的計算であって、数値計算ではありません。結果はすべて朝永がチェックしましたが、相互にもチェックし、加速するのが朝永ゼミの目的でした。
そこに特に名乗りもせずに入って来て、部屋の後ろの方の席から、討論に参加することもな静かに聴いていたのが、敗戦後大学院生として研究を始めたばかりの南部です。2〜3年後輩の木庭、福田、宮本、早川は、東京大学で1回だけあった朝永の講義を聴き、朝永を訪ねて指導を受けていましたので、初めから「朝永ゼミ」のメンバーでしたが、南部のおもな興味は多体問題だっためもあって、朝永ゼミの「聴講」を始めたのは、1947年のことと思います。
その彼が、皆が知らないうちに、同じLamb Shiftを違う方法、それもより多くの項を考えた方法で、一人で計算していたのです。そして多分1948年の夏、Lamb
Shiftの値を1019MHzと出してしまったのです。この結果について、友人である福田、宮本とは議論したと思いますが、朝永とは話をせずに、一人で論文にまとめ、1948年9月までには、湯川と朝永が中心になって1946年に創刊した英文雑誌
Progress of Theoretical Physics に送っています。そして1949年のJan.-Mar. Issueに掲載されました。これが南部の第二論文です。これに対し、朝永が自分の方法でLamb
Shift を1076 MHzと計算し、朝永がノーベル賞を受ける理由になった福田、宮本との共著論文2報目は、それより3カ月あと同誌のApr.-Jun.
Issueに出たのです。
Lamb Shift に関するかぎり、南部論文は、朝永論文を確実に越えています。少なくとも三つの理由からです。第一は、論文の公表が3ヵ月早いこと、第二は、自己エネルギーの計算にあたって、朝永が考慮してない反粒子まで考慮していること、第三は、論文を内容表現のレベルで見た場合、南部論文は、全体の構成と計算内容の表現に十分な考慮と工夫があるため、精密でありながら全体が見える論文であるのに対、朝永論文は、計算ノートをそのまま出した感じです。
このすぐれた仕事を研究歴2年にならない若者が、10人を向こうにまわして、一人でやり遂げてしまったのですから、見る人が見れば、まさに天才の出現です。しかし誰も気がつきませんでした。気がつくほどの実力をもっていた人は、いなかったようです。いたとすれば朝永だと思いますが、「天才の出現」と認めたことはありませんでした。朝永の弟子、協力者も同じでした。 一般の人が夢にもそう思わないのは当然でしょう。
Part III 独創性の秘密にせまる
研究者が南部の独創性を学ぶことのできる材料は、彼がなし遂げた仕事そのものですが、それ以上に神髄に迫りうるのは、南部の場合は、発表論文そのものです。独創的な人間の場合は、社会とは違う自分の考えを、社会に認めてもらうために、発表論文に自らのエッセンスをたたきつけるからです。
さて、必要な準備は済んだので、いよいよ南部の第二論文を読んで、直接に南部の姿勢、仕事ぶりに接しましょう。この論考はその手引きですから、必ず南部論文を脇に置いて読んでください。有料ですがCiNiiのウェブサイトから、簡単にダウンロードできます。比較しながら読みますので、朝永論文2報もダウンロードして下さい。
読む視点は,、南部論文のスタイル( Style)、スピリット( Spirit)、サイエンス( Science) の3Sです。まずこの論文を1回通読したときの印象からゆきましょう。印象を強めるには、朝永論文を同じく通読して下さい。
1. スタイルの思想性
最初に強く印象に残るのは、両論文のスタイルの違いです。私の場合は、この二つを住宅にたとえて見ました。朝永邸は、仕事も食事も同じ空間なので生活している間は、ものが出放題で無秩序に見える日本の住宅を思わせます。一方の南部邸は、生活空間といえども、機能的に秩序正しく仕切られ、いつも整然としている西欧住宅を思わせます。さらに家具が機能的でありながら全体と調和し美しいことが西欧住宅の特長ですが、この点も南部論文です。
ここで家具にあたるのは数式の表現、そのダイヤグラムによる表現などです。こうした特長があるため南部論文では、どこに何が書かれているか全体の構成が一目瞭然ですし、数式やダイヤグラムの表現が十分に工夫されているので、単に美しいだけでなく、それが何を表しているか感覚に訴えるようになっています。しかも肝要の数式は、十分に練り上げられた精密な表現になっています。
南部のスタイルの特長は、全体と部分が、違和感なく一つのものになっていることです。どの部分にも、全体を感じさせるものがあります。これは「部分と全体の調和」という程度の表面的なものでなく、「部分と全体の一貫性」だと思います。この一貫性は、すべてのことを自分の頭の中で完全に自分のものにした緒果と思います。これを思想化と定義しましょう。すると南部論文の一つの特長は、スタイルの思想性といえるでしょう。
2. スピリットは世界人
私が南部論文を初めて読んだとき、一番驚いたのは、南部がこの論文の先行研究として、朝永の「くり込み理論」を紹介しているつぎの言葉です。
Fo1lowing Bethe's idea, Tomonaga has developed, independently of American
authors a so-called 'self-consistent' subtraction method...
"following" は、研究の場合は、「真似して」の意味になりますが、それを主語の前の文頭にもってきているので、英文ではすごく強い意味になります。
これは「くり込み計算」の方法についてですが、朝永の本領である「くり込み計算可能なスキーム」の発見についても、つぎのように述べています。
A1though Tomonaga's theory has recourse to a relativistic canonical transformation
which may be regarded as a generalization of the transformation used by
Bloch and Nordsieck and by Pauli and Fierz, yet his...
つまり、朝永の仕事は、パウリ( W. Pauli)らの仕事の形式的一般化であって、オリジナルなものとはいえないという評価に聞こえます。
私にとってこれが驚きだったのは、数カ月前、Schweberの本の引用文献リストに、偶然この論文を見つけて読み出すまでは、私が「くり込み理論」に関して読んだのは、1949年に朝永が『科学』に書き、1978年「量子物理学の展望」にそのまま掲載された有名な解説だけですが、そこにはべ一テ
( H.A. Bethe) の名前は一切出てこないからです。国内で解説を書く人は、すべて朝永の解説をフォローしました。その緒果、くり込み理論は、湯川理論と同じく、純粋に日本が生んだ物理思想という神話ができあがりました。それを東洋思想と結びつける考えも出ています。
南部でさえ、最近の著書ではこれを東洋流のあきらめの思想と結びつけています。
でもそれは国内だけの信仰です。その証拠は、1965年に朝永がノーベル賞を受けたとき、ワラー(I.Wal1er) が委員会を代表して行った業績紹介スピーチです。
"As soon as Tomonaga knew about the Lamb shift experiment and Bethe's
paper he realized that an essential step to be taken was to substitute
the experimental mass for the fictive mechanica1 mass...
したがって、Betheの論文を読んだ前後の朝永の研究の様子を、目の前に見ていた南部が メfollowing Bethe's idea"
と書いたのは、科学者として当然のことです。でもそれは、日本社会に「くり込まれて」生きる日本人としては、自然なことではありませんでした。朝永の気持ちはわかっていたからです。でも南部には、あえて「科学者の当然」に向かわせるスピリットが、ありました。Einsteinがそうであったように「世界人」、「知求人」として生きるスピリットです。
知的探求(知求)を自分の仕事として世界人として生きる人間のスピリットです。
3. サイエンスでの情勢判断
つぎに南部の論文そのもの、見てゆきましょう。南部の独創性を学ぶ上で大事なのは、テーマのつかみ方とやり方です。第一の点で注目をひくのは、導入部の次ぎの意味の言葉です。「朝永の理論は相対論に合うよう正準変換を採用していますが、実際の計算方式もそれに従うようになっています。ところが、朝永の方法それ自体は、従来知られている計算方式にも適用できるので,私はそれを試みました」と述べられています。さらに単に方式が違うだけでなく、Lamb
Shiftを計算するときに想定する中間粒子の状態として、朝永らは、エネルギーが正の状態だけを考えましたが、南部は負の状態、つまり反粒子も考えたというのです。
南部の研究の最大の特質は、研究戦線の状勢を判断し,とるべき道を決める能力だと思いますが、処女論文にすでに、彼の特質がよくあらわれています。それを確かめるには、南部が飛込んだ当時の物理学の状況を、俯瞰しておく必要があります。それは理論物理学の歴史上の最大決戦でした。テーマは「電子の自己エネルギーを計算すると、無限大になってしまうという」問題でした。それは古典論にも見られた問題です。電子が、自分が作った電場に乗っているとすると、 電荷を一点に集めるには、無限大のエネルギーが必要です。これを避けるために、古典論では電子は「最小長さ」の剛体としていました。ところが相対論に合うよう理論を変えようとすると、
相対論では「剛体」というのは認められないので、古典論とは少し違う形ですが、電荷の凝集に必要なエネルギーは無限大となってしまいます。これを「自己エネルギー発散の困難」といいます。
シュレーディンガー(Schroedinger)の方程式を、相対論的に書き換えた「ディラック(Dirac) の電子論」が大成功して、この間題はいったん解決したようにみえましたが、この立場からは電子のエネルギーとして負のエネルギーを認めるので、真空とは「負エネルギーの電子の海」となりました。その結果、困難は解決どころか、混迷の度を深めました。Diracによれば、満席の負エネルギー電子が抜けた空孔は、陽電子を意味しますが、陽電子の発生をこのようにとらえる立場を「空孔理論(
ho1e theory)」といいます。空孔理論によって、電子と陽電子の「対発生」が容易だとなると、電子と場との相互作用が一挙に複雑化するからです。混迷によって既存理論への不信が高まると、抜本的改革が唱えられました。湯川の「空間量子化」、坂田の電荷凝集力としての「C中間子の存在予言」がそうです。
これに対し、計算が得意な人たちは、現在の理論の枠内での間題点の発見につとめました。それにも二派あります。「場の量子論派」と「空孔理論派」です。場の量子論派は、原因は当時の場の量子論が相対論と完全には合っていないためと考えて、理論の完壁化を目指した人々です。
朝永の「超多時問理論」がそうです。一方、空孔理論派は、今や明らかになった複雑きわまる相互作用を、全部考慮しないのが原因と考えて、複雑なものをできるだけ全部計算する努力に向かいました。
誰がいつからどんな立場で、努力したかをまとめてみたのが図1 ( pdf 参照) です。同時に、結果を出した6人の予測値を比較した表1 (
pdf 参照) と見比べると、興味がわくと思います。気がつくのは、この問題に一番早くから取組み、一番正確な理論値を出したのはワイスコップ(
Weisskopf) であるのに、ノーベル賞をもらっていないことです。実は彼は、1934年に出した論文ですでに、質量、エネルギーの renormalization
( 再基準化) を提唱しているのですが、計算の途中で1カ所符号を間違えたところがあって、ハイゼンベルク( W. K. Heisenberg)
に叱責され、それ以来、早く結果が出てもすぐは発表しなくなったのが原因です。
オッペンハイマー( J. R. Oppenheimer) の最優秀の弟子であったダンコフ( T. Dancoff) も計算の間違いが発見された人です。空孔理論では多数の遷移を全部考えねばなりませんが、そのうち二つを落としていたのです。そのためキャンセルすべきはずの項がキャンセルせず、renormalizeしても発散が残りました。その結果、空孔理論ではこの問題は解決できないという結論になり、
場の量子論への拍車がかかったのです。
南部が、従来知られている計算方式とよんでいるのは、Dancoffの計算のことです。南部は朝永ゼミを聴講しながらも、少し距離をとり、その信念には完全には同調しなかったようです。もちろんDancoff
の計算の見落としについては知る由もなかったのですが、彼の方法はまともな方法なのでBethe の処法と組合せれば、うまくゆかないはずはない、やってみようと考えたのだと思います。そして
Dancoff とは同じ間違いをしなかったのは、複雑な遷移現象をもれなく計算するための分類法を考えたからだと思います。つまり南部の計算は、Dancoff
が10年前に成功したはずのものでした。そしてもしそうだったら、この10年間の無駄はなかったでしょう。それを10年にとどめたのは、南部の状勢判断とカンです。
Part IV 独創力の原点は 計算力と物理イメージ
1.南部の計算力
南部は朝永グループが5?6人でやっている計算を一人でやりました。しかも項の数でいうと,朝永グループは正エネルギーの電子だけ考えたので (十、十)
だけであるのに対し、南部は負エネルギーも考え (十、一) と (一、一) も考えたので、単純に言って、3倍になります。したがって単純に結論すると、南部は朝永グループのメンバーを、計算速度で一桁(10倍)上まわっていたはずです。2倍なら定評が立ち3倍なら別格視されるこの問題で、10倍というのはとても人間わざとは思えません。それが、いかにして可能だったかです。
一つのヒントは、彼自身の言葉です。あるインタビューで「私は計算は、だいたい頭の中でやります」と答えているからです。これで、彼が研究しているときの姿が、ほうふつされます。物理学者の仕事のほとんどは、他人の論文を読むことですが、論文ではスペースの都合上、計算の途中経過は途中を抜いてとびとびで記します。読む場合は、抜かれた部分を、自分で再現しなければなりませんが、このときに紙と鉛筆を使うのは、並の学者です。東京大学の2年後輩で、南部と並ぶ鬼才だった碓井恒丸は、昼食はいつも、左手でパンをかじりながら、右手の指先だけかすかに動かして暗算し、すごい速さで論文を精読していました。碓井も南部も自分の研究は主として暗算だったと思います。そのためには紙何枚にもわたる数式が、頭の中に完全に見えてなければなりませんが、頭の中でやるほうが紙に書くよりはるかに速いし、先が見えるからでしょう。将棋の名人と同じことです。
2. 計算力を支えた物理イメージ
暗算はたしかに計算のスピードを飛躍的に上げますが、この場合に求められているのは莫大な量の計算を、一つのミスもなく、見落としもなく実行することです。Weisskopfの符号の間違え、
Dancoffのケースの見落としがよい教訓です。南部にはその轍を踏まない何かがありました。それは仕事におけるツールの重要性をよく認識していて、自分でツールを発明する才能です。これは南部の独創性をいうとき、見過ごされがちの点ですので、特に説明しましょう。
空孔理論で自己エネルギーを計箪するときに必要なのは、状態pの電子がphotonを放出し、それが電子に干渉して、いろんなことを起こし、最後は吸収されて電子の状態がpからqに変化する際の、pからqへの変化の確率を計算することです。そのためには、電子とphotonの干渉で起こりうるすべてのことを考えあげねばなりません。そのために考えられたのが南部のツールです。
それは、電子とphotonがつくる状態の推移を表す線図 (たとえば次ぺ一ジの図A、B) と中間状態を正確に表現する記号からなっています。図A、B
( pdf 参照) の横軸はモーメンタム、縦軸はエネルギーです。そして負のエネルギーは反粒子を表しています。電子に対して陽電子です。図Bは、中間状態
@とA を通って q に移りますが、A は反粒子を含みます。図Aでは @、 Aともに反粒子を含みません。(B)の中間状態を記述したのが 表2
( pdf 参照)です。そこで第2段は、南部の使った記号による表現、第3段はそれを私がFeynman 流に表現したものです。pとqは電子、ミq
は陽電子、k はphotonです。Feynman流では、エネルギーが負の反粒子は、下向きの矢印で示されます。Feynman 流表現では、粒子と反粒子の対発生と消滅が一目瞭然です。
南部はこの推移線図と状態記号を使ってp からq への推移の道筋を、全部考えあげ、計算しました。これに対し、朝永らが計算したのは、対発生も消滅も含まない(A)の場合だけでした。表でわかる通り、南部の記号とFeynmanの図は、1対1に対応するもので、二人はほとんど同じことを考えていたと想像されます。
Feynman diagram が発表されたのは、この後ですが、考えが似ている南部は、自分の研究でも、これを徹底的に使ったと思います。その証拠に、BCS論文を学んだあと、著者の考えを知るだけでは飽きたらず、超伝導発生の条件をFeynman
diagramの考えで分析することを試みています。その際 Feynman diagram の運用に、新たな定理をつくっています。その結果として、ランダウ(
L. D. Landou) の弟子のボゴリューボフ( N.Bogoliubov) の理論とBCSの関係を明らかにすることができました。超伝導について独自のこのような深い理解が、南部が誰も思いつかなかったBCS理論の素粒子論への適用を思いつき、成功した理由です。
表1に名が上がっている6人は、いずれもこの時点で最高峰の業績を上げました。独力でやった人の中で一番若く、しかも処女論文でこれを達成した南部はFeymanに最も近くFeynmanに並ぶ天才といってよいでしょう。
Part V [解説] 第二論文理解の背景 : ラムシフトとその理論計算
ボーア(N.Bohr)の理論によると、水素原子内の電子のエネルギー準位は、 En = -Z2
h c R / n2 とその主量子数 n だけに依存するはずですが。実際には微細にずれていて、それは、Diracの電子理論によると、図のようになるはずです。(
図および式はpdf を参照してください)
Diracの理論によれば、2S1/2と2P1/2のエネルギー準位に差はないはずでした。ところが1947年
ラム( W. Lamb) とラザフォード( R. Rutherford ) は巧妙な実験によって 2S1/2
と 2P1/2 の間に約 1000 MHz のエネルギー差 ( Lamb Shift ) があることを発見しました。(その後、測定の精度が上がりLamb
Shift は1050 MHz であることが確定しています)
1947年7月、戦後初めての理論物理学者の集まりが米国ロングアイランドのシェルター島で開かれましたが、そこで一番の語題になったのが、Lamb
Shift でした。原理的で厳密なDiracの理論に誤りがあるはずはないので、それならShiftを起こす原因は、何かです。誰もがそれは放射場が電子に干渉して生じる電子の「自已エネルギー」が原因だろうと、考えました。自己エネルギーの「場の量子論」的計算は、すでに1939年
Dancoff により試みられましたが、結果は無限大になるので、無視する習慣になっていました。ところが今度は、無限大にならない自己エネルギー計算法が、真剣に求められることになりました。
これに対しBethe は、対処の基本的考えを、その場で発表し、その直後、それによる理論公式と具体的計算結果を得て、関係者に知らせています。Physical
Review誌にもすぐ論文として発表されました。ここでBethe の考えと理論計算の内容は、あとに発表された朝永の「くり込み理論」と「南部論文」のオリジナリティーを判断する上で、必須ですので、少し丁寧に紹介しましょう。
まずBetheの基本的な考えの主張とは、自己エネルギーの計算で、発散する項の中には、線形で発散する項と, 対数で発散する項の2種あるが、線形発散項は、全部消去し、考慮しなくてよいというものです。その理由は、モーメンタム
p0 の自由粒子の自己エネルギーΔWは、(1) 式のように、線形発散項になるが、このエネルギーは質量に変換されているとして、追加質量でΔmを求めると、(2)
式になる。そして Δm は 常に ( m0 十 Δm )という形で式の中に入っているこ
とに注目します。ここで m0 は、理論上考えられる「はだか」の質量で、これは知りえないもので、観測される質量は常に
m = m0 十 Δm だから、mを使うかぎり (2) 式 の Δm は無視してよいという主張です。
すると自己エネルギーとして残るのは (3)式で表されるWです。このままでは発散積分でが、発散をとめてLamb Shift の数値を得るためにBethe
は二つの処置を取っています。一つは積分の上限の設定です。この積分で k は、電子が放出し吸収するphotonのエネルギーですが、Bethe
はその上限を k = m c2 としています。これで積分は有界になりました。でもこれだけでは Wが Lamb Shift にならないというのが
Bethe の第2の主張です。(3)式の Wの総和を、n = m の1項だけにした W0 ( (4)式)
をWから引いて、W' = W - W0 ((5)式) にする必要があるというのです。W0
はほかの状態と干渉のない自由な電子の「白已エネルギー」ですが、これはphotonとの干渉で電子に追加された質量に相当する項なので、電子質量として観測値を使うとき、これはすでにWに入っているので差引かなければならないというのが
Bethe の考えです。
こうして Betheは, Lamb Shift を求める基本的考えを発表したあと、シェルター島から帰る列車の中で、理論計算を行い、(6)式の結果を得てノートに記しています。アルバイト先のゼネラルエレクトリック
( GE )社で、エネルギー準位差の平均値 (En ... Em)av を数値計算してもらい、これを使ってLamb
Shiftの値を、1040 MHz と推定しています。
シェルター島でBetheの基本的考え方を聴き、その直後、計算結果を知った一人に、シュウィンガー (S. Schwinger) がいました。誰一人かなう者がないといわれた理論計算の天才です。
Bethe の計算を見て、Schwingerが、一点、不満に思ったのは積分の上限を決める k = m c2 の仮定です。窓意的に思えました。そしてこれは、相対論を考慮してないために必要になった導入で、相対論的に理論を組立てれぱ、その必要はないはずと考え、理論構築を始めました。朝永とまったく同じ着眼点です。そしてBetheの考えの、相対論的な書き換えに成功しました。それは(3)式や(5)式のように、エネルギー
k についての積分ではなく、photonの周波数ωに関する積分で、表わされています。この場合でも、収束解を得るためには、積分の上限値 ω1を指定せねばなりません。ω1
を決めるため、Schwingerは「最小長さ」a を用いて ω1= 2πc / a としました。この
ω1 を用いると Lamb Shift の値は (7) 式の〈H〉のようになります。これは hω1=
mc2 ならば Bethe の結果と一致します。つまり、積分限界を k = mc2 とすることの妥当性が、認められたことになります。
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